前回掲載された「若い頃」の続きです。21才の時にアメリカ軍の捕虜となって、ドイツに帰って来たのは、戦争が終わって23才の5月頃だったと思います。それでも捕虜生活は、私にとって勉強の場のようでした。キャンプは大きく、2,000人位収容されて、たくさんのテントが建てられていました。周りは金網で塀をつくるという、ものすごく簡単なもので、その上に電線を引っ張り、20mおきに電球をつけ明るくしていました。

私たちのテントは、塀のすぐ側にあったので便利なこともありました。キャンプの外での仕事の帰りに、誰かがどこからか電線と電球を持って来て、金網の上の電球から電線を引き、こっそり小さな明かりを点けて喜んだのを思い出します。私たちのテントには10人の色々な職業の人がいたので、必要なことがあれば自分たちで考え作るという生活でした。私たちの傍には病人のための大きなテントがあり、冬は寒いので、外に出た仕事の帰りに、鉄板と煙突をどこからか、持って来てストーブを作って喜ばれたことを思い出します。私は、手伝うことだけでしたが、この先輩の考えは日本に来て役に立ちました。何かあったら考えよう、やってみようと。

それにしても不思議なのは荷物をどうやってキャンプの中に入れたのか、どんな話をアメリカの守衛としたのか今でも分かりません。

少し経つとアメリカの幹部の人が来て、私を含め3人のドイツ兵を呼び、自分のサインの真似をさせて私が一番似ていたらしく、彼の代わりにサインをする仕事を与えられました。ドイツ兵の働いた時間と賃金を計算してサインをする仕事は戦争が終わるまで続きました。ともかく勝ったアメリカは忙しく寛大です。

それから1年位してドイツの戦争が終わり、私たちの最後の仕事はスコップをきれいに洗い、まだ戦争をしている日本に送ることでした。はじめて日本を意識したのは、この時です。

73年前、捕虜になって最初の頃はこれからどうなるか、とても不安でした。そんなある夜、星を見ていると、「私は捕虜であっても神から愛された子、神の子」と、なぜか心に響いたことを思い出します。あと1ヶ月で94才になります。今、この響きをもっともっと大切に味わおうとしています。

投稿者プロフィール

Fr.Bauer Dominicus
Fr.Bauer Dominicus
ドミニコ司祭(アロイス・バウア・ドミニコ) ドイツ人
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭