若い頃  

「ドミニコ神父さんの若い頃って、どんな感じだったのでしょう?」と言っていた人がいたそうです。若いって何才から言うのかわかりませんが、1939年私が17才の時に戦争が始まり、1945年23才の時に戦争が終わったので、私の若い頃は戦争中と言えるでしょう。

高校は、23キロ離れた所まで自転車で通いました。11時頃に母が作ってくれたサンドイッチを食べ、13時に授業が終わり家に帰ってから昼食、そのあと宿題をして一日が終わります。日本のシステムと少し違っていますが、これが普通の学生の時間割です。学校には、先生も生徒も誰も残りません。今も多分同じだと思います。

戦争が始まって1ヶ月ぐらいしてポーランドが負けて、私の街の少し離れた所に捕虜収容所ができて、たくさんのポーランド兵が収容されました。

ポーランド兵は、信仰深い民族だったのでしょう。少し経つと『御ミサに参加したい』と願い出て許可がおり、私が通っていた教会の神父さまが行うことになりました。私に侍者をするように勧めてくれたので「ハイ」と答えたのですが、心の中は不安でいっぱいでした。私は、ポーランド兵はドイツ人を嫌って怒っていると勝手に想像していましたが、御ミサが始まってびっくり。御ミサはラテン語だったからです。私の心の想像は消えてなくなったのです。どこの国も同じキリスト、救い主。毎日、参加していたラテン語ミサと同じだったので、ホッとしたことを思い出します。

今、私が思うことは、それは祈りの力、御ミサの力、神さまの恵みだったのでしょう。収容所がなくなるまで、侍者を続けていました。

高校を卒業した頃には、戦争が激しくなり私はドイツ空軍に入隊して、無線のほうに進みモールス信号と天気予報を学びました。私たちは、モールス信号を1分間に80~90字まで打つことができるようになった頃、それぞれの戦場に行く事を命じられて、私はデンマークの海の上を偵察機に乗りモールス信号を打っていました。

その後、国全体が物不足になり、偵察機の燃料も不足し始めたので地上に降り、私は比較的安全な所で命令されるままに信号を打っていました。そんなある時、アメリカ軍の戦車に囲まれて、抵抗もせずに両手を挙げて簡単にアメリカの捕虜になりました。どうなるか不安でしたが、もう戦争に出なくても良いとホッとしたことを思い出します。

私21才の夏でした。


教会中庭

投稿者プロフィール

Fr.Bauer Dominicus
Fr.Bauer Dominicus
ドミニコ司祭(アロイス・バウア・ドミニコ) ドイツ人 フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭