1923年12月 ドイツ・ヘッセン州にて、カトリック教徒の家に生まれる。
その地方はプロテスタントの町でしたので、カトリック信徒が5家族ほどの教会でした。
母は、毎日私を連れてミサに行ったことです。そして私は週日のミサで3歳の頃から、侍者をしました。その時は司祭になろうという気持ちはありませんでしたが、侍者をしたいという気持ちはより強くなりました。
青年期は、ヒットラーの時代で、宗教を持つこと自体も難しく、色々な迫害も受けましたが、絶対にカトリックを捨てたことはありません。高校を卒業し、青年が入隊する特別部隊に配属になるところ、なんとか、ドイツ軍の空軍に志願して、幸いにも爆弾を積むことなく、偵察機に乗ることになりました。その後、南ドイツでアメリカの捕虜になり、南フランスへ移され、1年半、捕虜のテントで過ごしました。
戦後、帰郷してからは、小学校教員として勤務。戦後間もなく、荒れた時代の子供たちと過ごすうちに、“宗教なしに教育なし”と、強く感じ、宗教のことだけを教えるために、修道院へ入ることを望みました。
その旨を両親へ伝え、喜びと涙のうちにドイツのフルダ管区のフランシスコ会に入会。
そしてその後、宗教を教え伝える者、宣教師となりたいという気持ちの確信を得ました。日本へと派遣されると決まった時、日本の修道院へ「日本へ行く準備として、何を必要としますか?」という内容の手紙をお送りしました。
すると、日本のルカ司祭から返事が届きました。内容は次の通りです。
「謙遜と勇気だけで大丈夫。他には何も要りませんよ。」とのことでした。
私は、その言葉を携えて船に乗り、幾日もかけてドイツから日本へ来ました。
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●何時も心にある聖書のみ言葉
“神の手はわたしの上にあり、その計らいは神秘に満ちているアレルヤ”
(詩編139)司祭叙階60年を迎えるまで、思い起こしたみ言葉です。
このほかに、現在、思い起こされるみ言葉は、
“いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい”
(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・5章17節)
●特に伝えておきたいこと
この世の苦しみは、次の世のしあわせに比べることのできないほどです。
(ローマ 8章18節)
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1956年10月 日本のフランシスコ会へ派遣される。
六本木にて、日本語を6ヶ月勉強した後、1957年には旭川地区へ派遣され現在に至ります。
1957年 大町教会
1967年 名寄教会
1973年 砂川教会
1983年 末広教会
1990年 羽幌教会
1996年 士別教会
2003年 末広教会(大町教会と統合)
2003年 神居教会
2005年 滝川教会
1954年~2014年 司祭叙階60年(ダイヤモンド祝)を迎える。
2014年~2021年聖フランシスコ修道院にて、旭川市内四教会の協力司祭として司牧。
2021年~ 藤の園(月形)療養
2023年12月19日 100歳を迎える
1954年~2024年 司祭叙階70年(プラチナ祝)を迎える。
2024年7月20日 夜、老衰のため帰天。享年100歳。
投稿者プロフィール
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ドミニコ司祭(アロイス・バウア・ドミニコ) ドイツ生まれ
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』2024年7月20日帰天
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