神は「ミステリウムー神秘」。これはマウロ師から学んだことです。何気なく聞いていましたが、心に残りました。 どう思いますか?
神学を学びに行ったのに、神が「神秘―ミステリウム」「謎」「わからない」と教えられました。私には、忘れがたい教えです。神とは神秘―ミステリウムが良い“ことば”でした。「神はミステリウムー神秘」、どう思いますか?

お祈りを人に教えることは出来ません。読む祈り、暗記する祈りなら、教えられると思いますが、祈りは内面的なものです。神と対話する祈りなるとは限りません。畏敬の念、畏れ敬う気持ちを、教えることが出来ないと、私は思います。愛を知らないと神がわからない、と教えられました。この言葉も有益でした。
お祈りは「仰ぎ見る」ことからはじまります。畏敬の念、畏れ敬う気持ちが、人を祈らせます。自分の弱さや貧しさを覚えるとき、人はお祈りを覚えます。
神はミステリウム、神秘ですから「ふと気づく」こと「ふと感じる」ことがあります、それが大切です、これは賜ではないでしょうか!

お祈りにもいろいろあります。メディテーション、心の祈りを、教えることが出来ないと、私は思います。それで「こう祈ったらどうか!」をやってきました。ほんの少しの経験から「み言葉」を読んで、心に納めて思いめぐらす祈りを提案してきました。大本は「マリアは、これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしてきた」(ルカ2:19)です。

教会には「講演会」や「黙想会」があります。講師の良いお話しの会が催されます。「信仰は耳より入る」と言います。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。「聴く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)。スマホやパソコンの現代でも「目で聴き、耳で聞き分け、心で味わう」ことが要ります。

神はミステリウム。言葉で説明することが出来ません。どうしましょう!?

最初の信者は、マリアさまです、エリザベトを訪問した時に「主が、身分の低い「はしため」に目をとめてくださるとは」と言っておられます。
旧約のサムエルのように「どうぞお話しください。しもべは聞いております」(サムエル記3:10)と。お願いしては、どうでしょうか!

キリスト教を悪く言う人がいます。新聞を見ていましたら、その人は本を書いていました。誤解でしょうが怖い話、残念なことです。「誤解から理解へ」です。