馬と犬のお話し「神の瞳に映った私を観る」

フト目を上げると、馬の姿がありました。お庭の柵に沿って見つめていると、馬がやってきました。長い鼻面が迫ってきました。恐れずに見ると、馬の目の瞳の中に自分の姿が映っているではありませんか!神の愛をイメージさせる言葉が思い浮かびました。「神の瞳に映った私を観る」です。「目の中に入れても痛くない」と親は言いますね。馬の目の、その瞳に映っている自分の姿に、ふと気づいたこと、感謝感激!です。

ロヨラの聖イグナチオは、神の愛、それも受け身の愛の体験を土台にして、自分の不信仰と罪を瞑想させました。それが「霊操の原理と基礎」です。つまり「神の愛」です。愛されている自覚が無いなら、自分の弱さや罪深さを素直に認めることは出来ません。元気も湧きません。「神の瞳に映った私を観る」。

散歩をしていた時、アメリカの“マリブー”で出会った馬の思い出を大切にしています。お近くに馬がいませんか?!

「うちのDoggy(ドッギー)のためにミサをしてくれませんか」と頼まれました。留守番をしていた教会で出会ったレディーの頼みに、「もちろん奥さま、させていただきます」。てっきりご主人のことかと思い違えて、ご愁傷様ですと言おうとしましたが、口が回りません。お悔やみ申し上げますと言えば良かったのに。若気の至りでした。

そしてDoggy (ドッギー)が「ワンちゃん」のことだとわかったのです。犬のためにミサは出来ませんと言うと、彼女は、Check・小切手を出して、ミサをしてくれたら、あげたのにと。「ここが動物を可愛がった聖フランシスコのお弟子さんが、担当する小教区だと聞いて、遠くから来たのに」と言いました。

「オ~奥さま、どうして最初に Doggy (ドッギー)がカトリックのワンちゃんだと言わなかったのですか。ピーターとか、メリーとか名前がなかったのですか?」。

ペットのためにミサ、よろしいでしょうか?これはヘブライ語で感謝の意味です。