鼻水をたらした神さま ― わたしの神、わたしのすべて ―

Tさんは帰省した折りに、祖母に洗礼を報告して、十字架のイエスさまを見せました。「お前の神さまは“鼻水をたらした神さま”じゃのう」、これはお祖母さまが口にした感想でした。“みっともない”姿をしているという意味でした。
そう、Tさんから聞いて、わたしも見つめると、栄光に輝くお姿では無く、うつむいている「主」に気がつきました。

茨の冠を頭に載せられて、あばら骨が浮き出て、小さな腰布一枚をまとって、顔を右側に傾けられています。ほんとうに“みっともない”お姿をしておられる神さまです。しかし、これが具体的に示された神の愛の姿であると気がつきます。ヨハネは「この上なく愛しぬかれた」と証言しています。

教会の十字架にはイエス像があります。偶像崇拝に当たらないかという人がいますが、目に見えない偉大な方が、目に見えるお姿で地上に降りてこられ、五感と知情意を持った人間に、愛を示されました。彫刻やステンドグラスを偶像として否定していくと、神が人間の形を取って、この世界に生まれてこられた意味を否定することになりませんか。
わたしはイエスさまを見たことがありませんが、信じています。愛することができますように、願っています。

神を愛することができるのでしょうか? 目に見えない偉大な方を、人間が愛することができるのでしょうか?できるとしたら、キリストにならう形になるでしょう。
この“鼻水をたらした神さま”が語りかけるのです。アシジのフランシスコは「愛が愛されていない」と言ったと、伝え聞いています。そして対話をしています。「主よ、何をお望みですか」と。出会いと対話がセットになりますように。