秋といえば、食欲の秋とか収穫の秋などいろいろな秋を思い出します。芸術や読書の秋を思い出す人もいるかもしれません。わたしは人生の秋について考えました。自分はもう春ではないし、働きざかりの時でもないので、まさに刈り入れが間近な人生の秋におります。ところが先日、ヘンリ・J・Mナウェンの書き物に「人生、種を蒔く時」という文章を見つけました。その内容はだいたい次のようなものでした。[私たちの地上での短い人生は、種を蒔く時です。もし死者の復活がないなら、私たちが地上で生きたすべてのことは無に帰してしまいます。私たちの人生の喜び、苦しみのすべてがむなしく、滅んでいく肉と骨と一緒に地中に消えていくとしたら、私たちを無条件に愛してくださる神を信じることが出来るでしょうか。神は永遠に私たちを無条件に愛してくださいます。‥‥ 地上での生は、復活の体の種が蒔かれる時です。パウロが言っています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然のいのちの体があるのですから、霊の体もあるわけです」(1コリント15.42-44)。私たちが体にあって生きることの中には、何一つ無駄になることはないというこのすばらしい真理を知ることで、あらゆる瞬間を永遠に向けての種として生きるようにと招かれているのです。]
人生の秋と考えると、なんとなく寂しい感じがします。でもいまは種まきの季節と考えるなら、頑張って今日蒔く種を蒔いてしまわなければという気分になります。最近は涼しくなり寝苦しい夜が減り、朝までぐっすり眠られることが多くなりました。ところが最近はわたしがいつもロザリオ📿に使っている時間に居眠りしてしまうことが多くなってきました。たくさんの人から祈りを頼まれているので、毎日多くの時間をロザリオに使っています。わたしは長いロザリオは車椅子に絡まるので、いつも一連の小さいロザリオを二つ用意して祈っています。形や色が違うロザリオを右と左に置いてその向きを変えることで、いまどこまで祈ったかが分かるようにしています。時々そのロザリオが行方不明になることがあります。よく探したら車椅子の足乗せに引っかかっていたこともありました。小さなロザリオの散歩でした。最近わたしが楽しみにしていることがあります。それは知り合いの友人で、数年前に定年退職してからJ ICA海外協力隊に応募していて、今年の8月から看護師としてエチオピアに渡った人です。その人の便りをフェイスブックで見ることです。この人はわたしが司祭になってすぐに教えに行っていた札幌の藤学園の生徒でした。
寄宿舎にいたのですが、よく教会に遊びに来ていて、洗礼を受けたいと言った時には両親にお願いに行ってあげました。洗礼は親の反対で無理でしたが、卒業後も教会の青年たちの旅行に誘ったりしていました。大学を卒業して結婚してから看護学校に通って看護師になり、数年前に定年になり、子育ても終えて退職した時には婦長さんになっていました。昨年JICA海外協力隊に応募して、今年の4月から研修を受け7月末にエチオピアに渡りました。JICAの同期に69歳の方がいたけれど最終試験に落ちたので、65歳の彼女が今年の最高齢だったそうです。看護師として最後まで働きたいという志しは立派に思いました。エチオピアは電力事情が悪く時々停電があるみたいですが、毎週向こうでの生活を知らせてくれます。人に奉仕している人が知り合いにいることをわたしはとても嬉しく思います。この人は晩年までずっと種を蒔く人生を送っていると思いました。そして、私がいまどんな種まきを出来るかを考えてみました。私の毎日できる種蒔きは、時間がたくさん取れるので頼まれた祈りと、祈りが必要な人のために祈ることです。手抜きしないで毎日しっかり種蒔きしていきたいです。
投稿者プロフィール

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ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川修道院





