キリストの目線

旭川医大のような大きな病院にご聖体を運ぶとき、わたしは足が不自由なので、だれか車椅子を押してくれる人がいるとすごく助かる。先日、ある病院で、車椅子を押してくれていた人がわたしの頭を見て「神父さん、ずいぶんと薄くなったね」と言った。わたしは自分の頭をそんな角度から覗いたことがないし、まだまだ髪の毛があるから大丈夫だと思っていたので、ちょっとショックだった。それで、『今度からは車椅子を押してもらうときは、帽子も必要になる』と思った。

どの方向から見るか、いくつの目で見るか、どんな気持ちで見るかによって、物事はいろいろ変わってくる。優しい見方もあれば、上から目線の見方もある。公用車を私的に使用し、高額な海外出張費、政治資金の流用で、庶民感覚とずいぶんとズレていた東京都の舛添知事が先日辞表を提出した。「第三者の厳しい目で」と自分が指名した元検事の弁護士は「違法性はないけど不適切だった」と弁護していた。わたしたちキリスト者は社会人として違法ではなくとも、神の子として適切だったかどうかを考えなければならないだろう。キリストの姿勢、キリストの目線を考えると、キリストの顔はいつも弱い人、苦しんでいる人、小さい人々の方にむいていた。

教皇フランシスコは、先日、6月15日の一般謁見で、エリコの盲人の話をし、キリストのように、わたしたちの生活の中心に疎外されている人々を常に据えなければならないと話された。人々が道端で叫んでいた盲人を黙らせようとしたが、キリストは盲人の願いを聞き、彼を道端ではなく道の真ん中に連れてこさせた。今日、いろいろな理由でさまざまなハンディーを抱えている多くの人々が、社会の無関心や敵意、差別、疎外に苦しんでいる。彼らはしばしば声なき声を挙げて救いを、助けを、少しでも関心を、同情と連帯を示してくれるようにと叫んでいる。・・・わたしたちは、自分たちに不都合な人々、例えば難民や亡命者たちを面倒なものたちとして疎外しようとの誘惑にあうことがしばしばある。しかし、いかなる場合にも「いつくしみ、あわれみはわたしたちにとって行く手を照らす光」となると話された。  片目で見るよりは両目で見たほうが、奥行やデコボコがはっきり分かる。これが複数の目で見るなら、もっと色々分かることができる。わたしたちキリスト者はキリストに近づき、キリストと同じ目線をもつことができれば幸いだ。「キリストのように考え・キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」(典礼聖歌390)ことができるようになりたい。

マザーテレサは「わたしたちは神を見出さなければなりません。神は、騒がしく落ち着きのないところで、見出すことはできません。神は静けさの友なのです。・・・沈黙の祈りのうちに、多くを受ければ受けるほど、わたしたちの活動において、もっと多くを与えることができるのです。」と言っている。祈りのうちにしっかりキリストに出会い、キリストと同じ見方が出来るようになりたいものだ。

 

投稿者プロフィール

Fr.valentino Yamamoto Takashi
Fr.valentino Yamamoto Takashi
バレンチノ山本孝司祭 フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭