私は、四旬節、特に聖週間の福音を読んで、キリストの受難に関わった弟子たちと婦人たちが、非常に対照的なのに気づき驚きました。
ヨハネ福音書13章の初めに、「さて、過ぎ越しの祭りの前のことであった。イエスは、この世から父のもとへ移る時が来たのを悟り、世にいる弟子たちを愛して、終わりまで愛し抜かれた。」とあり、弟子たちの足を洗われました。最後の晩餐に招かれたのも弟子たちだけでした。一方、べタニアにイエスとその弟子たちが入られた時、マルタは食事の接待をし、マリアは非常に高価な香油でイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足を拭きました。
マルコとマタイの福音は、別の婦人が同じように、イエスの頭に高価な香油を注いだことを伝えています。(マルコ14,3-9.マタイ26,1-5)。さらにルカの福音書は、イエスが、ファリサイ派のある人の家で食事に招かれた時、イエスを招いた人は、彼に挨拶の接吻もせず、足を洗う水も出さなかったが、ひとりの罪み深い女性は、泣きながらイエスの後ろから、その足元に近寄り、涙でイエスの足を濡らしはじめ、自分の髪の毛で拭き、その足に接吻して香油を塗ったことを伝えています。その時イエスは、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」と言われた。
この女性は、ヨハネ8章1-11に書かれている姦通の現場で捕らえられ、石打ちにするようにと、イエスのもとに連れてこられた女性を連想させます。この時、彼女はみんなのさらし者にされている恥ずかしさと、石殺しにされる恐怖でどれ程の苦しみを味わっていたことでしょう。この時イエスは、律法学者とファリサイ派の人々に対し、「あなた方のうち罪を犯したことのない人がまずこの女に石を投げなさい」、と言われ、人々は年長者から始まって一人また一人と去って行った、とあります。そして、イエスは彼女に救いの言葉を告げられます。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。
ところで、最後の晩餐の席で、ユダはイエスを裏切り、ペトロはイエスを知らないと3度も否認し、他の弟子たちは皆イエスを置き去りにして逃げ去ってしまいました。(マタイ26,56)。 十字架の道行きでも、聖書にも書かれていませんが、ベロニカは鞭打たれ、茨の冠を被せられた血まみれのイエスに、ハンカチを差し出します。ひたすらイエスに思いを馳せ、その苦しみに歩み寄るその愛と信仰に頭が下がります。
「十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」 その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ19,25-27)。私は、主は今も、罪深く弱い私たちに、「見なさい。あなたの母です。」と救いの手を差し伸べてくださっているのではと思っています。


2021年3月28日 受難の主日(枝の主日)
“枝を持った会衆を祝福する祈り”を唱える中村神父様