今年9月には、いよいよ80歳を迎えることになりました。後期高齢者となって、心身の老化を実感することが多くなりました。特にこのところ、年末年始にかけて、何度か予期せぬ嫌なことに遭ってちょっと落ち込んでいます。文字通り、一番痛かったのは、昨年の暮れ、背骨の12番目を圧迫骨折したことです。しかし、医者には「怠けて過ごしてください」と言われた時は、内心しめたと思いました。現在、まだ痛みは少しありますが、サポートベルトを締めていますので日常生活には不都合はありません。二番目は、正月の鼻かぜをひき、少しこじらせたことですが、これはほとんど毎年のことで、ミサの時以外には不便はありませんでした。三番目は二月初め、郵便局までだからと、運転したのが運の尽きで、帰りに隣に駐車していた車の後部の角にぶつけてしまいました。これも保険でいちおう何とか解決できそうです。最後は、灰の水曜日になんと手術することに。これも高齢者の男性にはよくあるとの事で、土曜日には退院できる簡単な手術なので、諦めて受け入れることにしています。とは言え、“感謝して”とはなかなかいきません。

まだ、寝て過ごすことが多い毎日ですが、「寝る前の祈り」の詩編に、“床の上で 静かに心を調べよ”と、ありました。自分の弱さや愚かさ、罪深さに気づかされ、この先どう生きて行けばいいのかと不安になります。さらに不安なことは、このまま認知症が進んでミサができなくなったらと心配です。去年の夏ごろからベトナム語の勉強と、毎日1時間ぐらいの散歩を始めたのは、そのための一つの対策でした。知性や身体の老化だけでなく、心の老化もあるのでしょうか。漫然とミサや祈りを捧げていてもやはりだめで、日々「新しい人」となるために霊的刷新に努めなければと考えていますが、まだ“怠けて過ごしている”のが現状です。

「寝る前の祈り」で、いつも、“父よ、あなたにゆだねます。父よ、わたしをゆだねます”と唱えていますが、本当にゆだねているのか、“父にゆだねる”とはどういう事なのかと考えていた時、気づかされたことがありました。何時も自分のことばかり考え、自分の弱さや愚かさ、罪深さに自己嫌悪しているのですが、それにも拘わらず、父なる神様はキリストを通していつも共にいてくださり、導き支えて下さっていたのです。罪深さを反省し、悔い改めることは大切なことですが、その前に、そしてそれ以上に、慈しみ深い神さまに心を開き、いつも、“父よ、あなたにゆだねます。父よ、わたしをゆだねます”と祈らなければと思っています。

創世記に、神は、すべてのものを創造され、極めて良かったと言われています。聖パウロはエフェソの手紙で「神は、キリストに結ばれて私たちを天上のあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださいました。まさに神は、私たちがみ前で聖なるもの、非の打ちどころのないものとなるように、世界創設以前から、キリストに結ばせることによって私たちを選びだしてくださいました。それは私たちへの愛によるものです。」と言っています。


修道院中庭の木々たち・冬編

 

『教会の祈り』から
「寝る前の祈り・前晩」


p570~ 詩編 4 寝る前に


p571~ 答 唱

 

 

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投稿者プロフィール

Fr.Nakamura Michio
Fr.Nakamura Michio
クレト中村道生司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川四教会助任司祭
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