11月は「死者の月」と言われ、親しい故人のために祈るとともに、自分自身の死をも見つめ、思いめぐらす時とされています。これは、私たちにとって大切なことであり、有意義なことだと思います。「アベマリアの祈り」にも、「今も死を迎えるときも…」と祈りますが、しかし、死者のために祈り、また自分の死を思うことがどれだけ信仰と繋がっているか、即ち、復活されたキリストが、「今」そして、「死を迎える時も…」共にいてくださるという信仰につながっているかを思うとき、自分の祈りにちょっと疑問を感じることがあります。

私は1960年の「諸聖人」の日に洗礼を受けましたが、まだ洗礼も受けていないのに、10月のロザリオの月には毎日教会の「ロザリオの祈り」に参加していました。私の家は小さな酒屋をしていたのですが、その手伝いもせず、大学もよくさぼっていたので、兄は私に、「お前はカトリックの『信者』でなく『患者』だと言われていました。兄が言う通り「患者」みたいな歪んだ信仰でした。やがて、フランシスコ会に入会し、昨年誓願50周年を迎えましたが、私の信仰の歩みは相変わらず自己中心的で、神に心を向けるよりは他人の歓心を買うことに向かっている自分がいます。聖パウロも「私は自分のうちに、すなわち、私の肉のうちに、善が住んでいないことを知っています。良いことをしようという意思はありますが、行いが伴いません」(ロマ7,18)と嘆いています。

しかし、私の弱さ、罪深さにもかかわらず、神の側からの救い、キリストの福音、聖霊の働きを考えると光が見えてきます。聖パウロはロマ書8章で、「神が私たちの味方であるならば誰が私たちに敵対できますか。私たちすべてのためにそのおん子さえ惜しまず死に渡された方...人を義としてくださる方は神です。誰が私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて私たちのために執り成してくださるのです。」と述べています。

日本26聖人を始め、高山右近もマザーテレサも真面目に努力して生きられ、命までも捧げられました。しかし、だから天国に迎えられたのではありません。神の愛、恵みによってその交わりに入れられたのです。聖人や殉教者は神の愛を信じ、恵みを体験し、それを証しした人たちです。私たちもみんな、神の愛の交わりに招かれているのです。聖パウロも聖ペトロも信徒たちに手紙を書く時、「神に愛され、召された聖なる人々へ」と書いています。ですから、11月を「死者の月」とせず、神の救いの恵みを感謝し、祈る「諸聖人」の月と考えたらどうでしょうか。


ルーベンス 『聖母子と諸聖人』