先日、大町教会でミサをした時、大町の信者さんが、先日、藤の園のドミニコ神父様を訪問した時の写真を見せてくれました。100歳になった神父様は、写真を撮った時はまだ100歳前でしたが、わたしの覚えている神父様より、少し縮んでしまったように感じました。その日のミサの時、赤ちゃんを連れたお母さんが、祭壇の正面にある部屋でミサにあずかっていて、赤ちゃんがハイハイしているところが、祭壇から見えました。教会で赤ちゃんを見ることが滅多にないので、わたしは嬉しくなって、子どもはいいなと思って眺めながら、子どもは平和で安心だ。無力でか弱い、神さまも赤ちゃんになってわたしたちのところに来てくださった、と降誕祭のミサの説教のようなことを考えました。いま教会でハイハイしているこの赤ちゃんは、この先どんな子どもになるのだろうかと思いました。自分が親になったら子どもを教会に連れてきて欲しい。孫ができた頃には、一族でミサに来ていて欲しい。と思いました。

 わたしたちは、子どもがすこやかに育ってほしい。健康で幸せになってほしい。とだれしも思います。わたしたちはふつうこの地上でできる限り長く生きることが幸せだと思っています。でも死ぬことも、新しいいのちの始まりなのです。キリストは神としてのいのちを捨てて、人間の赤ちゃんとなってこの世に生まれました。死ぬことは新しいいのちの始まりになります。わたしたちは、この今あるいのちに死ななければ、キリストと共にある永遠のいのちを受けることができません。パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。‥‥この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉に留まる方が、あなた方のためにもっと必要です。(フィリッピ1.21-24)」と述べています。

 わたしたちの多くは、いずれ死を迎えるいのちを伸ばそうと、できる限りのことをしています。でもキリストと共に生きる永遠のいのちを考えるなら方向転換をしなければなりません。まもなく新しい年に変わります。わたしたちのこの世での残りの人生が確実に減っていきます。しかし、神とともに生きる新しいいのちには確実に近づいています。イエスはわたしたちの死ぬべき体に死なないものを着せるために、来られました。わたしたちのうちにすでに内在する神のいのちを育てることは大切なことです。洗礼によって与えられたこの神のいのちを、様々な霊的活動によって元気あるものにしていきましょう。秘跡、祈り、愛の活動によってこのいのちは生き生きとしていきます。

投稿者プロフィール

Fr.valentino Yamamoto Takashi
Fr.valentino Yamamoto Takashi
ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭