先日、デイケアーに行っていたとき、たまたまその日、隣の席になった男性から話しかけられました。その方はわたしと同じ脳卒中で、右半身が不自由な方でした。
彼は、朝野球で何時もキャッチヤーをしていて元気だったのですが、ある日、家に帰ってから、調子が悪なり、直ぐに救急車を呼べばよかったのに、いつもかかっていた病院に、後でバスで行ったそうです。ところが、病院が混んでいて、診察を受けたのはその日の午後になっていたそうです。彼は、あの時、救急車を呼んでいれば、こんな風にならなかっただろう、と悔やんでいました。
その方は不自由な身体になって18年になると言ってました。わたしは発病して今年で21年経ちました。おそらくその人も始めの頃はまだまだ今よりは苦労なく身体が動いていたと思います。
わたしは昨年夏の5回目の入院以降、今までの生活が全く出来なくなりました。それまで、車の運転とある程度話す事とミサをすることは出来たのに、その時からみんな出来なくなりました。神が与え、神が奪われた事ですから文句は言えません。出来なくなった事、失ったものを、悔やんでも始まりません、これから先のことは心配してもどうにもなりません。だから、いま出来ることを考えて生活することが、わたしのなすべきことだと考えることにしました。
新型コロナの出現で、世の中は変わってきました。ソーシャル.ディスタンスなど、今まで何でもなかったことが問題となり、教会のあり方も変わらざるをえなくなりました。これからも教会は変わるでしょうが、先のことを心配してもどうなるか分かりません。大切なのは、今この時をどう生きるかだと思います。わたしは、いま自分にあるものを考えてみました。今までの車が無くなったけど、今は車イスがあります。教会での人との触れ合いはできなくなりました。でも人のことを考えて祈る時間はたくさんできました。また、本を読む時間もたくさんできました。物忘れが多くなったけど。まだボケてはいません。
最後に、先日三浦綾子の細川ガラシア夫人を読んだ時、日本二十六聖人のパウロ三木が十字架上でした説教があり、わたしはその言葉が心に残ったので、紹介したいと思います。
『各々方、人は何のために生き、何のために死ぬべきか。富のためか、宝のためか、位のためか。それらはすべて朽ち果てるのじゃ。各々方、吾らは、吾らを創り給える天主(デウス)のために生き、また死ぬべきではござらぬか。己が欲に従わず、天上の聖なる御心に従って生き、また死ぬべきではござらぬか。この天主にこそ、まことの救い、まことの道がござる。天主は、天主に来る者を一人として斥け給わざる方なれば、己が罪を悔いて、いざその尊き救いに入られよ』
十字架の上にありながら、顔を輝かせて語る三木パウロの姿と、同じく十字架上に、静かに耳を傾ける他の二十五人の姿は、人々の肺腑をえぐった。
投稿者プロフィール
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ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭