節分が過ぎ立春を迎えたが、北海道は強い寒気団に覆われているためにまだまだ寒い。二月のことを陰暦では如月というがこれは「寒いために衣をさらに着る衣更着(きさらぎ)からついた名前」という説が有力らしい。今朝、玄関を開けて新聞を取り込んだ時に、ミシェル・クオスト神父の「ありがとう」という詩を思い出した。『ありがとう、主よ、ありがとう。きょう、わたしにくださった賜物みんな、ありがとう…わたしの目をさましてくれた洗面の水…いい香りの石鹸、さわやかな歯みがきの味、みんなありがとう…きちんと配られる朝刊…』(こんなに寒い朝にも配達してくれた人がいる。きれいに除雪された教会の庭も、時間通りに点火してくれた玄関のストーブも、昨夜は布団の上で寝てわたしの足元を窮屈にしていた猫も、みんなありがとう)と思った。寒くてたいへんだと思うよりは、寒さを感謝して、賛美できるならしあわせだと思う。「教会の祈り」には「火と暑さは神を賛美し、冬の厳しさも神をたたえよ。かすみと霧は神を賛美し、霜と寒さも神をたたえよ。氷と雪は神を賛美し、夜も昼も神をたたえよ…」という賛美の祈りがある。(第1主日・朝)
先日、吉野弘という方の『祝婚歌』という詩のことをラジオで聞き、ネットで検索してみた。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい」という出だしの詩で、立派すぎないほうがいい。完璧をめざさないほうがいい。ずっこけているほうがいい。正しいことを言うときはすこしひかえめにするほうがいい。正しいことを言うときは、相手を傷つけやすいものだと、気付いているほうがいい。立派でありたいとか、正しくありたいとかいう、無理な緊張には色目を使わず、ゆったりゆたかに、光を浴びているほうがいい…と、もともとは作者が親戚の結婚式に出席できなかったときに贈った詩だったそうだ。
教会はキリストの花嫁、キリストは花婿で教会の頭。司祭はキリストの弟子であるが、司祭が偉そうにして正論を振りかざしていては、みなに嫌われてしまうのかなと考えてしまった。祈りなさい。勉強しなさい。秘跡をたいせつに。典礼を…、教会の交わりを…と、みんなごもっともであっても、いつも言われていたら聞かされるほうが疲れてくるのかもしれない。それより、感謝しよう、賛美しようと言っている方があたりさわりがなく、みんなが平和な気持ちでいられるのは確かだ。
この季節は、まだ寒さが厳しく、大雪が降って一日に何度も雪かきが必要になったり、吹雪いた雪が窓に張り付いて室内が暗くなったり、玄関が吹き溜まりで開けられなくなったり、買い物に出るのもたいへん、と困ることや不便なことが多いと思う。それでも感謝できることを探そう。わたしたちの毎日には、小さなことであっても、主が与えてくださる恵みに満ちていることに思いをはせよう。信仰には「それでもなお且つ」の部分が大切なのだ。
カトリック留萌教会において主任司祭として赴任時に執筆。「教会だより2010年 2月号」より
神に聴くすべを知っているなら
ミシェル・クオスト (著)
C・H・ブシャール (翻訳)
藤本 治祥 (翻訳)
投稿者プロフィール
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ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭