「小さな死」と「本当の死」
先日、歯医者さんの待ち時間に、診察台脇に置かれていた「シルバー川柳」を読んでいたら「AKBわしらはこれよPPK」という句を見つけた。PPKとは、ピン・ピン・コロリの意味らしい。寝たきりになったり、徘徊したり、自分の人生の最後はどうなるのかは誰も分からないが、最後は他人に迷惑をかけないで、ピン・ピン・コロリと行きたいと思っている人は多い。でも、問題はその先にあることを、わたしたちキリスト信者は考えておかなければならない。死ぬところまでは皆が平等だ。しかし、その先は、その人がどのように生きたかによって、牧者が羊を右に、やぎを左に(マタイ25.33)に分けたように、別の道を歩まされるからだ。
長年、精神科医として、ホスピス医として、キリスト者として約2、500名の死をみとってきた、柏木哲夫というドクターは「小さな死」と「本当の死」について述べている。彼は人生の諸段階で経験する喪失体験を「小さな死」とみなし、誰でも、病気、失業、失恋、失敗など思い通りにいかなかった多くの喪失体験を乗り越えて、最後は本当の死を受け入れていく、しかし、人生の挫折をあまり味わうことがなく、トントン拍子のめぐまれた人生を歩んできた人は、「小さな死」という喪失体験をうまく乗り越える訓練をしてこなかった分、本当に大変な自分の死を迎えることが難しいそうだ。「小さな死」は「受け入れの死」であり「庶民の死」とも言える、とこのドクターは述べている。わたしたちの、日々の苦しみ、不便、マイナス体験が本当に大切な死の訓練になっているのだ。自分の十字架を大切にしていこう。
つい先日、札幌のある女子修道院から、わたしが知っている認知症で徘徊していたシスターが亡くなったので、お祈りしてくださいと知らせがあった。わたしは亡くなられたシスターにも修道院のシスター方にも両方「おめでたいことだ」と思った。このシスターは生前苦労した分が功徳になり、今は天国で自由に動き回り活躍していると思える。
今年も間もなく死者の月がやって来る。亡くなった人たちのために祈るだけでなく、自分の生き方、自分の小さな死、日々の十字架についても考えるようにしよう。
聖ヨハネ・パウロ二世教皇は次のような言葉を残している。「福音は根本的な矛盾を含んでいます。生命を見いだすためには、生命を失わなければなりません。生まれるためには、死ななければなりません。救いを得るためには、十字架を引き受けなければなりません。これは福音の基本的な真理であり、この真理はつねにいたるところで人間からの抵抗を受けずにはいないのです」。(世界を愛でみたすためにーヨハネ・パウロ二世100の言葉―、女子パウロ会)
小さな死を大切にすることと、もう一つ、より自由になるために、自分を空にすることも大切だ。わたしは聖マザー・テレサのつぎの言葉も好きだ。「与えるために、どれだけ持っているかが問題なのではなく、わたしたちがどれだけ空っぽであるか、ということが大切なのです。空っぽなので、日々、十分にいただくことができるのです。自分自身を見つめることをやめ、何も持っていないこと、何者でもないこと、何もできないことを喜びましょう・・・」。(マザー・テレサ日々のことば、女子パウロ会)。 それで、わたしはたいてい財布も脳みそも空っぽになっている。
投稿者プロフィール
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ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭