3月19日は聖ヨセフの祝日でした。福音書の中に聖ヨセフの言葉は出てきません。わたしは、彼は自分の望みより神の望みを優先させる、寡黙で男らしいしっかりした男性だったと思っています。マリアを妻に迎え入れたこと、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れたことなど、すばやく決断して行動に移すことのできた人です。人はみな、日々、様々な決断をします。朝目が覚めた時から、夜に眠りにつくまで、何を食べようか、どんな服を着ようか、どのテレビ番組を見るかなどの小さな決断から、どんな仕事に就くか、誰と結婚するかのような、人生を左右する大きな決断をする時もあります。大きな決断と小さな決断の連続で人生が成り立っています。わたしたちキリスト者はキリストについて行く選択をしたのですから、いつも自己中心ではなく、神の「みこころにそう決断」を選ばなければなりません。何が「みこころにそう」ことなのかは、祈りがなければ判りません。あるお医者さんが、朝目が覚めてすぐ四つの祈りをすると書いていました。第一は、きょうのスケジュールが守られるように。第二は、神さまのみこころにそった決断ができるように。第三は、どんなことが起こっても冷静に対処できるように。第四は、家族や友人がまもられるように。だそうです。(柏木哲夫著、いのちへのまなざし、いのちのことば社)。みこころにそう決断は、自分中心の選択をすることではありません。わたしたちは「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように・・・」と主の祈りを唱えます。いつもみこころを理解できるように教えてください、という謙虚な心で祈ることが大切です。
渡辺和子シスターは、「一粒の麦は地に落ちて死ねば多くの実を結びます。実りを生む死となるためには、それに先立つ「小さな死」が求められ、その時には辛いとしか思えない自分との闘いが、実りを生む死となります。毎日の小さな死が大きな死のリハーサルになります。小さな死は、日々の生活の中で、自分のわがままと闘い、自分の欲望や感情などを制御することです」と書いています。(面倒だから、しよう、幻冬舎)。先日、ネット配信のニュースで、渡辺和子シスターが、2015キリスト教学校合同フェアで講演した記事を読みました。彼女は教え子の大学生から「三だけ(今だけ、金だけ、自分だけ)」という言葉を教えられ、刹那的に生きる日本の人々を見ると、本当にその通りかもしれないと感じる、しかし、本当に幸せになるには、今という時をどのように過ごすのか、お金は何のために使うのか、人間は一人では生きられない、ということを学ばなければならない。そのことを教えることにキリスト教学校の使命がある。語っていました。
みなさん、わたしたちが神のもとに帰る日はそんなに先のことではありません。自分のなすべきこと、与えられた人生、自分の使命を考えてください。使命は命を使うと書きます。命を使うことは、すり減らすことです。すり減らすことは「小さな死」を心がけることです。神のみこころにそう決断をいつもできるなら素晴らしいことです。聖母マリアは神のお告げの時に、「そうなりますように」という神のみこころにかなう決断をしました。
(カトリック美唄教会において主任司祭として赴任時に執筆。教会だより『小さな群れ』2015年4月より)
投稿者プロフィール
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ヴァレンチノ山本孝司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区協力司祭