みなさん暑い日が続いていますがお元気ですか。C年の年間第17主日のルカ福音書は「主の祈り」、イエスが人々から離れて独りで祈っている場面から始まります。イエスが祈り終えたとき、弟子たちは「私たちにも祈りを教えて」と頼みます。イエスは応えて「祈る時には…」「父よ、御名が……」このことばはイエスの祈りの「秘伝」であり、このことばに従うことでイエスの全生涯によりそい、支えて下さった父と信頼をもって対話に加わることが出来るようイエスが私たちに与えて下さった鍵のようなものです。イエスは「父よ」という呼びかけに2つの願いを結びつけます。「み名があがめ…」「み国が…」イエスの祈り、つまり私たちキリスト者の祈りは、何よりもまず神に場を設けます。神の愛の支配が私たちの人生に及ぶようにすることから始め、神が私たちの中にご自分の聖性を表し、その支配が広げられるようにするためです。

 祈りについてイエスの教えに2つのたとえ話が続きます。友に対する姿勢、子に対する父親の姿勢のたとえ、どちらも父なる神を全面的に信頼するよう教えることを意図します。神は私たちの必要を私たちよりもご存じですが、ためらうことなく根気強く、自分たちの必要をご自分に示すよう求めておられます。

 そうすることが、神の救いにあずかるための、私の側のあり方だからです。祈りは、私たちがもっている、もっとも重要で第一の「仕事道具」です。根気強く神に願うものは、神を説得するためではなく、私たち自身の信仰と忍耐力を強めるためです。つまり真に重要で必要なものを私たちが神と共に求められるようにするためです。祈りを深めるため“フランシスコの旅と夢”の「愛」の話しを紹介します。

 ある日フランシスコはレオがヨハネの福音を朗読するのを聞いていた。「神は愛である。愛のうちにいる者は神におり、神も彼にいます」。聞いているフランシスコの心にさまざまの思いが去来していた。愛はどこにあるのだろう。旅の途中で隠れた宝のように見つかるのだろうか。そしてそれが旅を価値あるものにするのだろうか。それとも旅することそのものが愛なのだろうか。あるいは旅の原動力は夢だろうか。たしかに神に出会ったとき、私たちは愛をも見出した。けれどもそれはいわば旅の始まりにすぎない。すでに神を見出したとか、自分は正しい地点から正しい方向に向かって神を探し求めている、などと断言できるものがはたしてあるのだろうか。洞窟の中での経験はフランシスコに、イエスが彼の心のうちに住みたもうこと、神は自分自身の心の内以外のどこにも見出されえないことを教えてはいた。けれども彼はその他の所におられる神をも探し求めたかった。自分の住むあらゆる場所に神を見出したかった。それはまた旅の途上のすべての地点で神を見出すことであった。私たちが神を見出すあらゆる場所、すべての地点、そこに愛があり、そこに神がおられる。修道院の兄弟の中にも、宮廷や城の中にも、スバシオの洞窟の中にも、ご聖体の中にも — 突然、フランシスコは、このようにいたる所で神を見出すことが出来るのは、神が常に自分と共にいて下さるからなのだと、悟った彼は自分の行く所どこへでも愛をもたらした。だから彼はいたるところに愛を見出すことが出来たのである。

 ひとたびそう気づいてみると、事はいかにも簡単明瞭であった。愛は、己のうちにすでに愛をもっている者の所へ訪れる。私たちは自分のうちにすでにもっているのを見出すのである。神ははじめに私たちを愛して下さったのであり、この贈りものは、私たちがまだ何もないうちに与えられたのである。レオがヨハネ福音書を読むのを聞いたときに得たような洞察は何年にもわたって旅を続ける原動力を与えてくれた。そして、その旅の途上で、愛の神秘への洞察は、さまざま形で彼を訪れた。この理解のたまものに対して心から感謝をささげたのであった。

投稿者プロフィール

Fr.Nagao Toshihiro
Fr.Nagao Toshihiro
ロマーノ長尾俊宏司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』旭川フランシスコ修道院 修道院長
(旭川地区:旭川六条・神居・大町・富良野 主任司祭)