人々は彼を信じた。人々は夢を信じることを願っていたが、彼はその夢が実在することを証明した。その人の名は、フランシスコ。アシジの町に静かな生涯を送り、そして死んでいった。霊の光が全世界から消えかかっていたとき、この人、この小さなひとりの人が、再び炎を燃え立たせた。死んだ時、彼はわずか45才だった。けれど彼は、すべての人に見るべき「夢」と試みるべき「旅」とを残した。この書物は、私自身の夢であり、フランシスコとともにたどった私自身の旅である。読んでこられた方々の目にその夢が明瞭な姿をとって浮かび上がってくるようにと祈り、また、この旅路ー すべての理解を超えた平和と喜びに向ってこの旅路に出発しようと促し感じとっていただけるよう祈っている。

 旅と夢ー この2つのものがフランシスコの人生を大きく変えていった。この2つは、いわばフランシスコという存在を織りなす糸の一本一本とより合わされていったのである。フランシスコは、よく今まで夢を保ち続けてこられたものだと驚くのである。もちろん、自分ひとりの力でできたものではない。夢を保ち続けた人は、フランシスコというよりむしろイエスなのだ。イエスの名はなんとやさしい響きを彼の心に伝えることだろう。いつも隣にいてくださり夢を送り、旅を続けさせてくださった方!フランシスコは愛と支えなしにはどんな人でもこの平野で生きながらえることが出来ないのを知っていた。彼にとってその愛と支えは主イエスその方であった。主はいつも「フランシスコ、小さき者よ、私を疑うな。私は決してお前を捨てるようなことはしない」とささやき続けていてくださった。そして、主イエスほど忠実な友がいるだろうか。

 イエスは従う者たちが旅を続ける平野、ほこりだらけの道をともに旅を続けるふたりの旅人ー それが、イエスと主に忠実に従う騎士の姿である。とはいっても、その姿には王の威厳といったようなものはまったく見られない。むしろ、荷車を後ろに引いた二頭の牛によく似ている。荷物を引く二頭の牛 ー

 「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」という福音のことばを読むたびに、フランシスコはこのイメージを思い浮かべた。隣にあってともに負ってくださる方が主ご自身だと知ればどんなくびきも負いやすく、引いていくのが夢だと知れば、その荷はまことに軽いのである。主と自分と二頭の牛が並んで、蝶の羽でできた荷車の中にたなびく絹のような夢を引いていく ーフランシスコはこんなふうに想像してみるのだった。数えきれないほど多くの者が、夢を追って出発しながら、途中で挫折していった。彼らは、自分ひとりの力でくびきを負っていこうとして、すべてをだめにしてしまったのだ。くびきの反対側が地面にひきずっているのを見て、何とかしようと、狂ったように身を傾ける。その結果、車は傾き、汚れ、こうしてつりあいを失った夢は、だれの目にもまったくばかげたものとなってしまう。二頭立てで引くように設計された車は二頭が力を合わせなければ引いてはいかれないのだし、どんな夢にせよ、夢というものはひとりの人が独占できるものではない。夢とは愛し合う人々のために存在するものである。だから夢を担っていくには、愛する人との協力が不可欠であり、夢を生かしていくには旅が不可欠なのである。


「フランシスコの旅と夢」【絶版】
 ムレイ・ボド著 宮沢邦子訳

投稿者プロフィール

Fr.Nagao Toshihiro
Fr.Nagao Toshihiro
ロマーノ長尾俊宏司祭
フランシスコ会 日本管区『小さき兄弟会』 旭川地区・旭川フランシスコ修道院 主任司祭・修道院長(旭川五条・旭川六条・神居・大町・富良野)