今日の話は、イエス・キリストが語った「毒麦のたとえ」です。良い種がまかれた畑に悪魔が毒麦を混ぜて蒔いたという話を通して、神が「世の終わりまで悪をあえてそのままにしておく(忍耐し、待たれる)」という天国の性質を教えています。
成長するまで小麦と毒麦は見分けがつかないため、主人(神)は早急な善悪の判断や排除を控え、世の終わりまで両方をそのまま育てて収穫の時に分けるよう命じています。
先日の7月18日はわたしの司祭叙階の記念日でした。1976年(昭和51年)に北海道出身のフランシスコ会員5人が札幌北11条教会で冨澤司教様から司祭叙階されました。わたしは1965年に洗礼を受け、翌年1966年に自分はどうしても司祭になりたいと考えフランシスコ会に入れてもらいました。信者でない家庭だったので、家族からは司祭の道に入ることが反対されましたが、たくさんの人たちに支えられて、叙階まで持ち堪えました。
来週の日曜日は「宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13.44)という福音です。神の国の素晴らしさに気づいた人は全てを投げ出しても、それを手に入れるとのたとえのように、わたしは、もう他の事は目に入らず、あまり心配や不安もなしに呼ばれた道に進みました。たくさんの人の祈りや援助で助けられました。神学校に入ってから何人もの人が辞めていきましたが、わたしは「神様が呼んでくれたのだから絶対神父になれる」と思っていました。もう50年も経ってしまったと思うと、「神の計らいは限りなく、生涯わたしはその中で生かされてきた」ことを感じます。
今日のたとえに出てくる毒麦は、パレスティナの人々にとっては、ごくありふれた雑草でした。毒麦と言いますとなにか恐ろしげですが、この草自体には毒がありません。ただし、めまいや吐き気をもようさせる毒性の菌がこの草につきやすいためにそのような名前で呼ばれるようになったのです。このたとえを読む時、わたしたちは無意識に、「毒麦は誰か」を探します。神さまが、自分を待っていてくださったことを、わたしたちは時々忘れてしまいます。人を裁くことは、相手だけでなく、自分の心も荒らしていきます。
主は今日、あなたに“鎌”ではなく、“種”を渡しておられます。
人を裁くためではなく、み言葉を蒔くために。誰かを切り捨てるためではなく、とりなすために。「主よ、わたしを忍耐をもって待ってくださったように、わたしも人をあなたの目で見られるようにしてください。裁きではなく、愛ととりなしを選ぶ心を与えてください。」と祈りましょう。*(Ka)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Facebook&Instagramからもご覧になれます。








