今日の福音は神の真理が素直な心(幼子のような者)に啓示されることへの賛美と、人生の重荷に苦しむ人々をイエスが真の安息へと招く、聖書の中でも特に愛されている慰めに満ちた言葉です。イエスは自分の教えが、当時の宗教指導者たち(知恵ある者)ではなく、素直で謙虚な心を持つ人々(幼子のような者)に、神の愛と真理が明らかにされたことへの感謝と賛美を述べました。
すべての権能が御子イエスにあることが宣言されています。当時の人々は、厳しい律法の遵守や罪の意識(重荷)に苦しんでいました。イエスは「わたしのもとに来なさい」と呼びかけ、魂の深い休息(安息)を約束しています。先週の日曜日に教皇はお告げの祈りの後の講話で、ベネゼエラの地震でたくさんの人が亡くなったことのお悔やみを述べ、聖アウグスティヌスの「愛する者から離れるのは辛いことである。しかし、農夫も自分の蒔いた種を一時的に失うのである」大地に投じた種を「失う」ことによって初めて、それが花開くのを見ることが可能になります。と話されました。そして、愛は自分を与えることによって初めて実を結びます。すなわち、他者に場を与えるために進んで自分を少し失うことによって。友人に耳を傾けるために少しの時間を失うことによって。困難な状況を共有するために少しの安楽を失うことによって。自分のためにいのちを取っておく人は、実際にはいのちを失います。なぜなら、その人は愛の喜びに心を開かず、不毛な者となるからです。だからイエスは十字架を受け入れるようにわたしたちを招きます。イエスはご自分をささげ、ご自分を失いました。それによってわたしたちはいのちを豊かに受けることが可能になりました。と話されました。
今日の聖書と典礼の表紙の絵は、イエスのエルサレム入城の絵です。そして「見よ、あなたの王が来る。 ‥‥高ぶることなく、ろばに乗って来る」という第1朗読のザカリアの預言の言葉が書かれています。以前どこの教会だったか忘れましたが、聖週間に「どうしてイエス様は子ろばに乗られたのか。それでは子ろばがかわいそうではないか」と訊かれたことがあります。わたしはマタイ福音書に書かれていて、イエスが子ろばに乗ったのは、旧約の預言が成就したことなのです。と答えました。
イエスの頃、権力者や王は軍馬に乗るのが一般的でしたが、イエスはあえて「ろばの子」に乗って現れました。これは、武力や支配による征服ではなく、平和と柔和さをもたらす「真の王」であることを象徴しています。「ろばの子」に乗る王が示す平和のかたちは武力や力で示されるものではありません。イエスは疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。と言われています。昔わたしはエルサレムに入城するイエスさまを乗せた、小さな子ろばのようになりたい。〈主の用なり〉と言われたら、たとえ自分に力が無くとも、どこへでも出かけて行こうと考えて自分のことを「ちいろば」と言っている榎本保郎牧師さんの本を読んだことがあります。自分はたいして役に立てないけどイエス様をお乗せした「ちいろば」ですと思っていた牧師さんの考えたことばです。「ちいろば」は面白いことばですね。教会に、「ちい老婆」でも、「ちい祖父」でもたくさんいると教会は生き生きとして来ますね。
力と富にたよる者は真の平和を作り出すことはできません。
先日、沖縄慰霊の日の式典をテレビで見ました。沖縄の人たちの気持ちと国の政治家たちの間の隙間をすごく感じました。本当に戦争なんかしてほしくないと思っている人たちと、平和憲法があっても、戦争反対や核廃絶ではなく、うまく立ち回ってなんとか日本が平和であればいいとする高市首相の間にすごく大きな溝を感じました。強い国とか力を持つことを目的とした国や政治家たちはみんなのイエスの説いた幸せとはだいぶ離れた幸せを言っているだけではないかと思います。また今日の福音で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とイエスが言われていることばとても嬉しく思います。イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。ひとりではなくともに軛を担って歩んでくれる約束なので弱ってくたびれた人には力強い励みになります。祈りによってイエスがそばにいて、一緒に歩んでくれる時は同じ方向を向いていることになります。*(O)
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