だんだん暖かくなってきました。わたしの部屋から、お向かいの玄関先の道端に、福寿草が咲き出したのを見つけました。雪が消えたら直ぐに春がやってきました。
今日は神のいつくしみの主日です。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ご復活の主日の次の日曜日(復活節第二主日)を「神のいつくしみの主日」と定めました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)。この愛の神秘は、神のいつくしみをたたえるためにささげられる、今日の典礼の中心をなすものです。
今日の福音には、他の使徒たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、それを信じようとしなかった頑固者のトマスが出てきます。イエスは頑固で不信仰なトマスを見捨てることなく、一週間後にまた現れました。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言い、自分の愚かさを認めます。
イエスは他の使徒たちに対しても、ご自分を置いて逃げてしまったことを咎めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言い、彼らに聖霊を授け派遣します。
聖週間に、わたしは約20年前に、外国で修道会に入会していた青年が、日本に戻って来ていて、修道会を退会する決断に至ったメールをもらいました。本人は、自分が大馬鹿者だったと、ひどく落ち込んでいるようでした。わたしは、「誰もが上手くいくわけでもないし、神さまは上手く取り計らってくれるからお任せしなさい。」と返信しました。人生には挫折や失敗がつきもの。自分の考えたようにいかないで、失業する人、離婚する人、病気にかかる人、神父を辞める人もいます。神さまは別な道を用意してくださっている、と考えると平和でいられます。何回も結婚して今は幸せな人もいるし、転職する人もいます。神さまはいつでも、いつくしみ深い神さまです。
神の霊がご自身を現されるのは、しばしばわたしたちがいない時です。イエスが弟子たちから去って行こうとされた時、「わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ、パラクレートス(聖霊)はあなたがたのところに来ないからである(ヨハネ16.7)と言っています。イエスの弟子たちがイエスの現存の意味を悟ったのはイエスがいなくなってからでした。彼らが信仰と希望と愛の交わりに集うことができたのも、イエスがいなくなり、聖霊がきてくださってからでした。わたしたちがイエスの名によって誰かを訪ねて、わたしたちを通してイエスがそこにおられるようになれば、わたしたちはイエスを運ぶ人になれます。
先週、金曜日の夜のニュースで、「旭川市では今月、カラオケ教室やカラオケ設備がある飲食店などでクラスターが5件相次ぎ、計40人の感染が確認されています。
中にはマスクをせずにカラオケをしていた例もあったということです。」このような報道があり、わたしは、自粛できないで.多くの人に迷惑をかける人たちのことを、腹立たしく思いました。でも感染した人を裁くことは愛に反することになると思いました。
神はいつくしみ深いお方、神のいつくしみだけではなく、教会にはイエスの気配を運ぶいつくしみ深い人が、たくさんいて欲しいですね。