今日の典礼の最初に「枝を持った会衆を祝福する祈り」がありました。わたしは「全能永遠の神よ、この枝を祝福してください。主・キリストに喜び従うわたしたちが、ともに永遠の都エルサレムに入ることができますように。」と祈りました。

今日の「受難の主日」のミサからカトリック教会の典礼の頂点におかれる聖週間が始まります。
イエス・キリストはユダヤ人の過越祭を間近に控えて、ベトファゲからロバに乗って、エルサレムの町に入られました。 すると大勢の群衆は、「イエス・キリストがダビデ王のように、イスラエルの国を復興させる王としてエルサレムに来られた」かのように考え、自分の服やシュロの木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホザンナ」と叫んで、イエス・キリストを歓迎しました。しかしイエス・キリストがエルサレムにおいでになったのは、使徒たちに何度か予告していたように、十字架にかけられて、すべての人の身代わりとなって、自分の命をお捧げになるためでした。 この御受難の出来事を記念するために、今日の福音では、キリストの受難の朗読が行われます。

新型コロナウィルスの世界的感染拡大を背景に記念された昨年の「受難の主日」に、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で、ごく少人数の協力者と共にミサをされました。そしてその説教で、パンデミック危機を生きる人々に、足りない物事だけにとらわれず、自分たちに可能な善いことを考えるようにと話されました。
日本では、先日首都圏に出されていた緊急事態宣言が解除になりました。またオリンピックの聖火リレーが始まり、なんとなく緊張が緩んできたように感じられます。しかし、新型コロナウィルスの感染者数は減ってきてはいないのです。わたしたちは気を緩めないで、うがい、手洗い、マスク、三密を避けるなど、わたしたちが出来ることをしっかりやっていかなければなりません。また先日、アメリカ国内での東京オリンピック・パラリンピックの放送権を持つNBCが聖火リレーについて「鎮火されるべき」とする意見記事を掲載したというニュースを読みました。聖火リレーから始まる今回のオリンピックでは何千もの選手やコーチらが日本に入るが、誰もワクチン接種を義務づけられていないことなどをあげ、パンデミック(世界的大流行)が悪化する懸念があり、日本国民の8割が中止や延期を支持していると伝えていました。日本国内ではあまりこのような意見は聞こえてきません。第三者の方がシビアに分析しているように思えます。

イエスは、ご自分を一粒の麦にたとえ(ヨハネ12.24)、そのいのちを十字架上で犠牲にすることで、イエスを信じた人に永遠のいのちを与えるという神の計画を実行しました。わたしたちは、人を救うために何か立派なことはそんなにできません。しかし、自分に死ぬこと、人に踏まれたり、無視されたり、我慢すること、縁の下の力持ちに甘んじること、そういった機会ならたくさんあるはずです。笑顔がないところに笑いを運んだり、自分から挨拶したり。ありがとうを伝える。人を喜ばすことを考えること。自分に死んで人を活かすことこそ、キリストに従って天のエルサレムを目指すキリスト者の生き方のように思います。