今週の木曜日3月11日は東日本大震災が起きて10年目の記念日に当たります。地震と津波火災で2万2000人余りの死者行方不明者を出し、さらに福島第一原子力発電所のメルトダウンで放射能汚染の被害が出ました。
今日の福音はイエスの宮清めと言われる、神殿を清めた話です。エルサレム神殿の壮大な建築物はイエスの頃、長い年月をかけてまだ建築中でした。イエスは異邦人の庭という場所で、生贄のための動物を売っていた人や両替商を「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言って追い出します。イエスは商売をしていた人たちが、神殿当局から許可を受けていたにせよ、神聖な場所が金儲けの場所に変えられていることに、我慢が出来なかったようです。ヨハネ福音書は1世紀の終わり頃。つまりエルサレムの神殿崩壊から、約30年後に書かれたと思われます。エルサレムの神殿は金箔が貼られていて、金色に輝いていたのですが、ローマ兵は金箔を剥がすために壁を壊しました。その時、西壁は金箔が貼られていなかったので破壊を免れました。(現在、嘆きの壁として残っています)。
ヨハネが福音書を書いた頃、ユダヤの国は滅び、大勢のイスラエル人は追放されて遠い国の奴隷になり、残った人々もエルサレムに入ることが厳しく禁止されていました。都と神殿は。瓦礫の山となり落ちぶれて見る影もない状態となっていました。ヨハネは多くの弟子たちが殉教した中で、まだ生きているキリストの最後の弟子として、復活の出来事の光の中で「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というキリストの不思議な言葉を述べ伝えています。パウロはキリスト者の体のことを「聖霊の神殿」と言います。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と言っています(1コリ3.16)。
わたしたちは、自分の体の神殿が、正しくふさわしい使い方をしているかどうか考えてみなければなりません。
東日本大震災の津波は多くの人の命と全ての物を一瞬の内に奪い取りました。わたしたちは津波でなくとも、「寄る年波」によっていま持っている物を、やがてみんな取り上げられてしまいます。
わたしたちは赤ん坊として生まれた日から、一つ一つ「出来ること」を獲得してきました。昨日まで歩けなかったのに、今日は歩けるようになった。今日は一つの言葉をしゃべれたけれど、明日には二つしゃべれるようになる。
老いはその反対です。昨日まで歩けていたのに今日は歩けなくなる。しっかり噛んで食べられていたものが、噛めなくなる。生まれた日から一つ一つ獲得してきたものを、一つひとつお返ししていく。老いとはそういうことです。
歳月の波はわたしたちから多くのものを奪い去っていきます。健康、財産、友人、家族、最後に何か残るといいでしょうか?「神が与え、神が奪う。神はほむべきかな」なんて言えたらカッコいいですね。最後に神さまありがとうございますと言えるような人生にしていきたいです。そのためには、日常の生活の中で、当たり前ではなく、たくさんのありがたいことを見つける幸せな生き方が大切だと思います。