みなさん、主のご復活おめでとうございます。今年の復活祭は平成最後の復活祭ですね。カトリックではあまり使いませんが、復活祭はイースターと呼ばれます。イースターという名前の由来は、ゲルマン神話の春の女神エオストレ「Estore」からきているようです。教会は、クリスマス(降誕祭)はローマ帝国の冬至祭をキリスト降誕のお祝いに変え、復活祭は春の女神のお祭りをキリストの復活のお祝いに変えました。新しい生命の息吹が感じられる春は、死の闇を打ち砕いてこの世に命をもたらしたキリストの復活を祝うのにピッタリです。ちなみにモアイ像で知られるイースター島は1722年、オランダ海軍がこの島を発見した日がイースターだったため、「イースター島」という名をつけられたそうです
今日の復活の聖なる徹夜際の典礼の第1部は、世の光としてこの世に来られたキリストを思い起こす光の祭儀でした。第2部は、たくさんの聖書の箇所が朗読され、神がどのようにして人の救いを配慮されたかを考えました。第3部は神の子として新しく誕生する人のための洗礼と堅信の儀でした。ここの教会では、洗礼を受ける人がいなかったので、洗礼の約束の更新だけがありました。そして第4部は感謝の祭儀(ミサ)でした。
先日、福音宣教という雑誌の5月号に、音楽家の三澤洋史さんという方が「イタリアで過ごした聖週間」の言う記事を載せていました。『枝の主日はヴェネツィアに行った。ミサの時に信徒たちに配られたシュロの葉の大きさに思わず笑ってしまった。・・・聖金曜日はミラノだった。聖金曜日の礼拝は午後3時からしか行われないので、スカラ座で稽古があるため出席できなかった。その代り、午後9時から十字架の道行きあるというので参加した。集合場所は街の広場、みんなが風よけのついたローソクに火を点け、十字架を掲げた司祭を先頭に行進が始まり、長い行列が通り過ぎるまで、車もバスも市電も立ち往生、1時間くらいかかって行列は界隈を一周して教会が終着点になった。聖歌が歌われた。それがカトリック聖歌集658番の「主よみもとに」だったので、懐かしさに涙腺が緩んだ。すべてが終わって再び外に出たら、大都会ミラノの空気が浄化されているのを感じた。一方、復活祭のミサはまったく雰囲気が違う。これは家族のためのお祝い会。子どもたちがいっぱい来てみんなで写真を撮ったり、とにかくイタリアらしく底抜けに明るい…』 わたしたちも復活祭には教会ではお祝いのご馳走が出るし、「アレルヤ・アレルヤ」と唱えておめでたい気がします。それはいいのですが、その前の、キリストの救いの業を考えてほしいのです。彼は自らのいのちを差し出されたこと、いつまでも共にいるために聖体の秘跡を残されたこと。自分はどのようにしてキリストに協力できるかということです。
明日は統一地方選挙後半の投票日です。わたしは、明日は忙しいので、先日、期日前投票を済ませてきました。旭川では、大町教会の信者さんが市議会議員に立候補していたので、わたしはその人にいれてきました。 ここで一息: 選挙の応援演説 「この候補者は、石鹸のような人です。自分を削って犠牲にして、世の中の汚れを落としてきれいにします」と言うところを、すっかり上がってしまった演説者は言った。「この候補者は、石鹸のような人です。自分を削って犠牲にして、世の中の汚れをきれいにするため、落ちてしまいます」 *(NA)