今日は聖金曜日で、ここの教会では18時30分から主の受難の祭儀が行われています。わたしは昔からずっと、主の受難の祭儀は夜行われるものと思ってきました。ところが、先日、福音宣教という雑誌に、イタリアでは聖金曜日の典礼は午後3時からしか行われていないという記事を見つけました。それで今年2月に発行された「四旬節・聖なる三日間・復活節の典礼に関する補足事項」を調べました。そうすると、『司牧的理由から主の受難の祭儀を午後3時より遅く行う場合にも…』という記述がありました。聖金曜日の典礼は本来、キリストの亡くなられた時間に行なうものだったのです。日本では司牧的理由でどこの教会も夜にしているようです。

「主の受難の祭儀」は出来事そのものに集中します。さきほど、ヨハネ福音書の長い受難物語が、役を分けて朗読されました。ミサ典礼書の注規には朗読の後に「必要に応じて短い説教を行う」と書かれています。これは、短くてもよいではなく、短くあるべきだということです。聖金曜日の典礼は、主の受難と死という『出来事』をあらためて思い起こすためのものです。だから、説教は短くして十字架の出来事を心に刻みなさいというのです。主の受難の意味を深く考えるのは、師であるイエスが晩さんの席で、弟子たちの足を洗った箇所が読まれた、「主の晩さんの夕べのミサ」の方です。イエスがご自身の身をかがめて他人の足を洗う行動は、翌日の受難と死の意味(互いに仕える)をあらかじめ示すものでした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。受難は「友のために自分のいのちを捨てること以上に大きな愛はない」というイエスの一貫した生き方でした。受難は「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」とあるように、イエスの神に対する信頼と覚悟の表れでした。

ヨハネ福音書のイエスの受難では、十字架上でのイエスの言葉が三つ出てきます。一つは「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。見なさい、あなたの母です」でイエスは十字架のもとにいた聖母を弟子のヨハネに託します。二つ目は「渇く」です。イエスは十字架上で肉体的な渇きと同時に精神的な渇きを感じられます。それは救われない人々、信じない人々、人々の魂に対する飢えでした。聖マザー・テレサや小さき聖テレジアなど、多くの聖人たちは、イエスは飢え渇いていて、わたしたちに「飲ませてください」と嘆願していると考えました。三番目のことばは「成し遂げられた」です。イエスはいつも父のみ心を果たすことを求めてきました。自分の人生の最後に神のみ旨を果たしたと思える人は幸いです。イエスが「成し遂げられた」と言われたことは、最後まで意識がはっきりしていた証拠です。わたしは人生の最後に、神に自分をゆだねることができたらいいと思いますが、こればかりはどうなるか分かりません。どのように生きていたかがその人の最後に出てくると思います。柏木哲夫という精神科医でホスピス医は、約2500名の患者さんを看取り、人生の最後に「ありがとう」と言って死ねる人が、人生の本当の実力者と言っています。 *(NA)