みなさん主のご復活おめでとうございます。復活祭はキリスト教の一番大きなお祝い日ですが、日本ではクリスマスほど知られていません。クリスマスは商業ベースで物を売り込むために世の中が教会より早くからさわぎたてます。復活祭は毎年日にちが変わることもあり、信者でない人にはあまり知られていません。

キリスト教はイエスの復活を信じた人々によって始まりました。イエスの十字架での死は誰しもが認めます。ほとんどの世界史の教科書に記されています。しかし復活になると話は別です。イエスの死後、弟子たちはイエスが復活したと言い広めた、というような表現が多くなります。最初キリスト信者を迫害していたパウロは、復活したイエスと出会いイエスこそキリストであると確信を持ち、熱心に宣教するようになります。彼は「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたの信仰も無駄です」と言い切ります。キリストを三回も知らないと言って裏切った使徒ペトロも、復活したキリストとの出会いから、「人間に従うよりも、神に従わなければならない」といって大胆にキリストを伝えるようになります。

砂漠の宗教であったユダヤ教では、汎神論的なギリシャや日本と違い、ただ一つの神以外のいかなるものをも信仰することをきびしく禁じていました。そういった中で、弟子たちがイエスは神であり主であると宣言したことは、彼らを動かしたそうとう大きな確信となる体験があったからだと思われます。

今のわたしたちはイエスの復活を信じるだけでなく、復活したイエスと出会っていくことができます。ミサの時に信者が拝領する聖体を通して、神のみ言葉である聖書を通して、「二人または三人がキリストの名によって集まるところにはわたしもその中にいる」という約束のとおり、キリストを信じる人々の集いにおいて、復活したイエスと出会うことができます。またイエスは「小さな人々に」したことは、自分にしてくれたことといいます(マタイ25)。小さな人々は、弱い立場にある人々、顧みられない、虐げられている人々、災害や様々な不幸の中にいる人々をさしています。

昨年の復活の主日に、教皇は「ウルビ・エト・オルビ(ローマと世界に向けた教皇の祝福とメッセージ)」を聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーからおくりました。その中で一粒の麦の話をし、キリストの復活が世の真の希望、決して失望させることのない希望であると信じています。わたしたちは全世界のために、平和の実を求めなければなりません。とのべました。

世界各地の紛争、さらに争や飢餓のために、希望もなく、教育も医療も受けられない子どもたち、そして、生産性がないと理由付けられ、利己主義的な文化によって切り捨てられた高齢者たち。これらの人に、復活のキリストが新しい命の実をもたらしますように。全世界の政治責任者たちのために、賢明の実を祈り求めましょう。神の愛の力と共に、復活の知らせは、悪を打ち負かし、罪を洗い、罪びとに無垢を、苦しむ人に喜びを取り戻し、憎しみを追い払い、力ある者の冷酷さを折り曲げ、調和と平和をもたらします。すべての皆さん、復活祭おめでとうございます。と結びました。                             *(NA)