今日の福音は、マタイ福音書の「山上の説教」のルカ版です。ルカは「山上」ではなく「平地」で話された説教になっています。聴衆もマタイでは「一般群衆」ですが、ルカではイエスの言葉を聞く「弟子たち」になっており、内容的にはルカの方がマタイよりずっと短くなっています。

今日の福音ですぐ目についた言葉は“敵を愛する”という言葉です。敵はわたしに対して害を与える人、不都合な人、嫌いな人です。イエスが何かを教える時には、天の父が○○だから、わたしたちも○○でなければならない、と話します。「敵」と言えば、わたしたちは往々にして一つの視点から見ている場合が多いのです。ちょっと視点を変えるなら見え方が違ってきます。わたしが嫌いな人、快く思っていない人にも、その人を大切に思っている家族もいるし、神から見たら大切な人です。愛することは大きく広い心で相手のことを考えることです。

先日、聖マザーテレサのこんな言葉を見つけました。『どんな人にあっても、まずその人のなかにある、美しいものを見るようにしています。この人のなかで、いちばん素晴らしいものはなんだろう?そこから始めようとしております。そうしますと、かならず美しいところが見つかって、わたしはその人を愛することができるようになります。これがわたしの愛の始まりです』。わたしは人を評価するとき、どうしてもその人の良いところより、その人の足りないところを先に考えてしまいます。まだまだ聖人の足元にも及びません。せめて「あの人の仕事はおそい。だけど、彼はいい人だ」と肯定のことばで終わる見方をいつも身につけたいと思っています。愛は相手の中に良いところを見つけます。

今日の福音の後半は(ルカ6・36-42)は“あなたがたの父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい。”で始まり、人を裁くな、人を罪びとだと決めつけるな、赦しなさい、与えなさいと続き、共同体内の新しい人間関係の在り方について述べられています。 教会に来ているみなさんが、どんなに聖書の知識があり、立派なお祈りができ、聖歌を上手に歌えても、共同体にホッとできるくつろぎの空間がなければ、さびしいと思います。愛があるところに神がおられます。典礼聖歌に♪いつくしみと愛があればどこにでも 神はそこに 共にいる♪という曲があります。教会は”いつくしみと愛“が感じられる空間であってほしいです。赦すことは難しいことですが、こんな笑い話を読みました。

敵はいない スペインの族長で悪名高いナルバエスに死が近づき神父が呼ばれた。神父は彼が敵をすべて赦すかどうか尋ねた。すると彼はけげんそうな顔を上げてこう言った。「神父さん、わたしには敵なぞいませんぜ。みんな撃ち殺しちまったです。ハイ」

もうひとつおまけです。

誤解 ある女性が牧師のところに来て質問した。「先生、鏡の前で自分の美しさにうっとりしてしまうのは虚栄の罪でしょうか」牧師は荘重に答えた。「いえ罪ではありません。単なる誤解です。   (山北宣久著、「福音と笑いこれぞ福笑い」より)      *(4)

 

山北宣久著、「福音と笑いこれぞ福笑い」