今年は灰の水曜日が3月6日と例年より遅いので、年間第6主日も第7主日もあります。わたしはいつも過去にした説教をチェックしていますが、C年の3年前も、6年前も、年間第6主日はありませんでした。それで日曜日にルカ福音書の今日の箇所が朗読されるのは9年ぶりになります。

ルカ福音書とマタイ福音書では「幸いなるかな」の設定が少し違っています。マタイ福音書では八つの幸いが述べられますが、ルカ福音書では、四つの幸いと四つの不幸が述べられています。イエスは宣教を始めるにあたり、「貧しい人」に福音を告げ知らせるためにご自分が神から遣わされたことを宣言しました。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である』。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々、人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名をきせられる人々。イエスは、この世の価値ではかると、とても幸せと思えない人々を幸いであると言いました。なぜ幸いなのかというと、その人々は、金も、ツテもコネもなく、最後は神に頼るしかない人たちなのです。イエスは、貧しくならなければ幸いになれないとか、飢えに苦しまなければ幸いになれないと言っているわけではありません。貧しさは悪です。貧困自体は人に幸せをもたらしません。貧困は人間らしさを奪い悲惨な状況をつくりだします。もう神さましか頼るところがない人々が幸いなのだと言っているのです。

こんな笑い話があります。ある浮浪者が街角で、上着もズボンも全部のポケットをひっくり返して探し物をしています。大切なものをなくしたようです。それを見ていたひとりが、「さっきから見ていると、一つだけ探していないポケットがあるぞ」と指摘します。すると男は「そこは最後の望みの綱として残してあるのだ」と答えます。神さまはわたしたちの最後の頼みの綱です。

富んでいる人、満腹している人々、いま笑っている人々、すべての人にほめそやされている人々は、自分のうちにすでに頼るものを持っているので、神さまを必要としなくなる危険があります。今日の第1朗読でエレミヤは「呪われよ、人間に信頼し、内なるものを頼みとし、その心が主から離れ去っている人は(エレミヤ7.13)と言っています。

先週の水曜日(2月13日)、教皇フランシスコはバチカンでの一般謁見で「主の祈り」についてカテケーシスを行い、「わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という箇所で、主の祈りには「わたし」という言葉がなく「わたしたち」という言葉が使われている。『キリスト者は祈りの中で自分の周りに生きるすべての人々の困難を思い起こし、神の御前でその日に遭遇した人々の様々な苦しみを語るべき』と述べ、『多くの人の苦しみや貧しい人たちの涙に無関心でいるならその人の心は石です』と話しました。考えてみるとわたしたちは満たされた生活をしています。より苦しんでいる人、困っている人、たいへんな人のことを考えるべきです。仏教詩人の坂村真民さんは『利他の心』という詩を書いています.「どんなにいい果物でも 熟さなければ 食べられない それと同じく どんな偉い人でも 利他の心がなければ 本ものとは言えない」。他人の幸せを考えることで本物のキリスト者になっていきましょう。   *(6)