今日は、2018年の最後の主日になりました。この1年を振りかえり、多くの恵みをいただいたことを感謝しましょう。今日は聖家族の祝日です。今日の集会祈願と拝領祈願の両方に「聖家族の模範にならい」という言葉が出てきますので、わたしたちの模範としての聖家族を考える日です。イエスとマリアとヨセフの聖家族の姿は福音書からあまり知ることができませんが、今日の福音はイエスが12歳の頃の聖家族のようすを少し伝えてくれます。彼らの家庭にもお互いに理解できない部分がありました。イエスを見失ったとき両親は心配していたのに、発見されたとき、少年イエスは謝罪もしないで、身勝手なことを言いました。母はお父さんを先に立て「ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して探していたのです」と叱っています。両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。しかし母はこれらのことをすべて心に納めておきます。ナザレに帰った少年イエスは両親に仕えて暮らします。ナザレの家族の中で、イエスは「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれます。2013年の聖母月に教皇フランシスコは、「聖母はわたしたちが人間として成長し、信仰において強く、人間として、キリスト者として、つねにより高くを目指して努力するように助けてくれます。」と説教しています。

わたしたちは、自分の生活の中で徳を必要とする分野を考えましょう。習慣を作るにはほぼ一か月かかるそうです。アメリカの心理学者、哲学者のウィリアム・ジェームズは、行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。と述べています。

わたしは18歳の時に洗礼を受けたので、信者の家庭の雰囲気を知りません。根っからの信者ではないので、しきたりを知らないこともあります。むかし、司祭になってすぐ、神居の修道院に住んでいた頃、日曜日の午後に洗濯をしていて、「安息日にそんなことをしてはいけない」とドイツ人のルペルト神父さんに叱られました。

先日、札幌教区の典礼委員会がありました。来年、札幌教区は勝谷司教の意向で「家庭での日常の祈り」を大切にするキャンペーンを行ないます。信仰生活の基本にあるものは祈りです。家庭で祈りがなくなったら、信仰も衰退していきます。ある大きな教会の主任司祭が初聖体の勉強をしていて、毎年、どの子どもも食前の祈りができない、さらにその親たちも食前の祈りができなかったと嘆いていたそうです。ここの教会の皆さんは一日に3回の食前と食後の祈りをきちんと唱えていますか、ある程度の年齢の方なら、お子さんやお孫さんリードして一緒に唱えてください。一人暮らしとかいろいろ事情は違いますが、一日に三回使う食前・食後の祈りは、だれでもそらで言えるようになってください。典礼委員会のとき、幼児洗礼のある司祭は、子どものころ覚えた、朝に祈り、寝る前の祈りなど多くの祈りを暗記していました。わたしは子どものころから祈りが心に植え付けられていると思い、羨ましく感じました。習慣になるために行動が必要です。イエスを見れば、聖家族が神と隣人を大切にし、祈りを大切にする家族だったことがわかります。 *(6)