今日は三位一体の主日です。三位一体はごく簡単に言えば、父と子と聖霊はそれぞれ別の方でありながら唯一の神であるということです。聖書の中には三位一体ということばはありません。イエスが亡くなってから400年くらいたちカルケドン公会議の頃になって三位一体という教義が成立しています。その内容は信仰の神秘です。ですから誰もが完全に理解できることはできません。今日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちで、全宇宙とあらゆる被造物の源です。

今日のヨハネ福音3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということばがあります。「聖書と典礼」の注釈には、これはイエス自身の言葉とも、福音記者のことばともとれると書かれています。このヨハネ3章16節は、「聖書の教えの集約」と言われ、また宗教改革者のルターは、この3章16節について「これは小さい聖書である」と言っています。神が世を愛された。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。この言葉をもっと身近なものとするために、「世」という文字を、「わたし」という文字に置き換えて読むといいそうです。そうすると、神は、他でもないこのわたしのために御子を遣わしてくださったことがわかってきます。ヨハネ福音書いた使徒ヨハネは、福音書の最後に、自分を“主に最も愛された弟子”と言っています。ヨハネは聖母マリアと生活し、ほかの使徒たちと違って長生きしました。彼が晩年になって書いたヨハネの手紙には。福音の要約のように、神は愛です。わたしたちは互いに愛し合いましょう。愛さない人は神を知らないのです(1ヨハネ4.8)と愛についてばかり書いています。

教皇フランシスコは3年前の三位一体の主日に、「愛は、父と子と聖霊である神への信仰を表わす具体的なしるしです。愛はキリスト者の特質です。愛する喜びのうちに他者を愛する人は、三位一体の写しです」と説教しています。

パウロはコリントの教会への手紙で「兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい…」と書いています。コリントの教会にはいろいろな問題もあったようですが、信者たちは仲が良く愛し合い、熱意に燃えていたように感じます。それぞれの教会共同体ではイエスが愛してくださったように、互いに愛し合うことが求められています。イエスが「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13.35)と言われたように、愛はキリスト者の特質なのです。

最後に、ある牧師さんが、面白いことを書いていました。妬み(ねたみ)・嫉み(そねみ)・僻み(ひがみ)は地獄の三位一体。地獄の三位一体は、人との仲を壊し、神と人とを切り離し、自己の心に不安を漲らせる。これに、ゆるみ・りきみ・たるみ・いやみが加わると、七味唐辛子ならぬ七位一体となる。この地獄の三位一体に打ち勝つには、(恵み・憐れみ・慈しみ)天国の三位一体に生きることが大切だそうです。