今日はキリストの聖体について考える日です。今日の福音で、イエスは「わたしは、天からくだって来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と語っています。この話が難解だったので多くの人がイエスから離れていきました。イエスは、ご自分を信じるすべての人に食べ物として自分自身を、また、ご自分の命(永遠のいのち)を与えるためにこの世に来たことを強調しておられます。主の弟子であるわたしたちは、主であるイエスと交わることを通して、行いをもって、他者のため自分を差し出し、他者を生かすパンとなっていかなければなりません。 (今日は父の日です。お父さんたちおめでとうございます。)

今月は「み心の月」です。6月号のカトリック生活は、「信心のすすめ」という特集を組んでいます。信心は信仰とは違うもので、信仰を育て、深め、強くする工夫です。カトリックの信仰は、公の信仰表明である典礼と、私的で内的な表明である祈りの中に顕著に示されます。そしてこの二つをつなぐものが信心の業なのです。今週の金曜日は「キリストのみ心」の祝日です。教会はキリストの聖体が祝われた週の金曜日にイエスのみ心の祝日を祝うように決めています。これはイエスのみ心の祝日が、聖体に対する多くの辱めと忘恩を償うことを目的に定められたことと関係があります。「み心の信心」は、18世紀に教会の内的刷新のためにイエス自身によって示された信心です。20世紀に入ってからは、ルルドやファティマでご出現された聖母マリアがロザリオの祈りを勧め、第二ヴァチカン公会議後には、わたしは、教皇たちが、聖体に対する回勅や使徒的書簡を通して、聖体に対する信心、聖体訪問や聖体賛美式を強く勧めていると感じています。ミサと聖体を大切にしてください。ミサと聖体に対する理解をもっと深めてください。聖体によってキリスト者の生活は成熟していきます。キリストを受け入れることで、わたしたちは変えられます。人間の狭いはかりではなく、神の大きなはかりに従って愛せるように変えられていきます。

それから、すべての秘跡は信仰が前提になっています。信仰のない人が水を注がれても洗礼になりませんし、ご聖体をいただいても聖体拝領ではありません。秘跡は受ける人の信仰を前提としています。そこに集まった人たちの信仰が活き活きとしたものであればあるほど、その共同体で行われる秘跡はもっと恵み豊かなものになります。教会ではよい典礼を行う必要があります。ミサはご聖体をもらえばいいというものではありません。誰と一緒に何をいただくのかも大切なことです。ミサの中で聖変化が行われますが、たいせつなのはパンと葡萄酒の聖変化だけではなく、そのミサが行われている共同体が聖変化し、変えられていくことです。よいミサよい典礼のためには準備が必要です。勉強も必要です。よく準備されていて、聖歌もうまい下手は別として皆が声をだしていてよい祈りになっていることが大切です。ここの教会のミサに出て元気がもらえた、ほんとうによかったと言ってもらえるような典礼にしていきましょう。

*先日、新聞で見た川柳 「赤信号二人で渡ると共謀罪」