皆さん主のご降誕おめでとございます。今日わたしは、たくさんの人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送りました。この季節は年賀状やクリスマスカードを書いたりするので、多くの知り合いを考える機会になります。そして多くの人とのつながりの中で自分が生かされていることを感じることができます。わたしは以前、ここの古い聖堂でクリスマスのミサをしてから、18年たちました。その後で大病を患い、今こうしてミサが出来ることはとても感謝すべきことです。病気してから、自由に動くことが難しくなりました。しかしまだ司祭として一番大事なつとめのミサをすることができます。クリスマスはキリストのミサという言葉からきています。教会には降誕祭に「夜半」「早朝」「日中」という三回のミサで祝う古代からの習慣があります。それだけ降誕祭は祝おうとする意味内容が深くて豊かであるということなのです。「夜半のミサ」ではイエスの誕生の経緯を描くルカ福音書が朗読され、野宿していた羊飼いたちに天使の知らせがあったところまで読まれます。「早朝のミサ」のミサではルカにおける誕生物語の後半部分が読まれ、天使の知らせを受けた羊飼いたちはベツレヘムに行き、飼い葉桶の中に寝かされていた乳飲み子を探し当て、幼児イエスを礼拝します。

降誕物語に現れる登場人物は、みな例外なくお金持ちや身分の高い人ではなく、貧しい状態に置かれている庶民です。マリアとヨセフは、田舎から出てきて出産のために宿屋を借りることも出来ない無力な人でした。羊飼いたちも当時の社会では最も低い立場の人々でした。神は司祭や律法学者たちにではなく、羊飼いたちにご自分の最初の啓示を与えました。飼い葉桶の中に寝かされている幼児イエスの姿も貧しさを示しています。考えてみるとわたしたちも弱く貧しい者です。だからキリストと出会うことができたのです。

わたしは「マザー・テレサ日々のことば」という本を持っています。その中の12月25日の箇所にこんな言葉があります。「クリスマスの日、わたしたちは、か弱く、貧しく、幼い乳飲み子としてのイエスさまを見ます。彼は、愛し、愛されるためにこられました。わたしたちは今日の世界で、どのようにイエスさまを愛することができるのでしょうか?夫を、妻を、子どもたちを、兄弟や姉妹を、周りの人たちを、そして貧しい人たちを愛することによってできるのです。イエスさまはすべての人の中におられるのですから。さあ、ベツレヘムの貧しい飼い葉桶の周りに集いましょう。そして、わたしたちが日々出会う、すべての人の中におられるイエスさまを愛することを固く決心しましょう。」日々小さなことを大切にするなら、クリスマスの精神を生きることになると思います。マザーはまた、「口数は少なくすべきです。説教しても、それが人とふれ合う場にはなりません。では、どうしますか?ほうきを取って、だれかの家を掃除しなさい。その行為が十分に語ってくれます。わたしたちは皆、自分にできる小さいことをして通り過ぎていく、神の道具なのです。」(11月24日)。この最後の言葉はわたしのすきな言葉です。キリストがベツレヘムにお生まれになっただけで、わたしたちの心の中に生まれなかったなら、なんと寂しいことでしょうか。人のこと思いやる、人の幸せを考える、人を喜ばせる、そういったクリスマスの心を、この時期だけでなく、一年中持ち続けたいものです。