今日の福音でイエスは当時の誰もが知っていた二つの事件を話題にして、悔い改めについて話しています。ひとつは政治的な事件で、もう一つは事故でした。イエスは不幸な出来事と罪を直接結びつけるようなことはせず、あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びると言われました。つい先日、大阪の繁華街で、心臓病で意識不明になった人の車が暴走して、通行人が巻き添えになった事故がありました。また、まもなく大きな被害をもたらした東北大震災から5年になります。わたしたちの身近なところで、事故や天災で亡くなる人がいるとき、わたしたちは、自分が、神の前にいつ呼び戻されてもよい準備ができているか、どうかを反省してみるべきです。

福音書の後半部分のいちじくの木の例えは、神はどのよう方であるのかをよく表しています。このぶどう園の主人は神です。一見すると、この主人は厳しい方のように思えます。しかし、園丁が、「もう一年待って欲しい」と願うと、主人は園丁の願いを聞きいれます。神はいつくしみ深く、神は忍耐強い方です。わたしたちが回心するまで、ずっと待ち続けています。神はわたしたちを簡単に裁いたり、天罰を下したりはしません。今年の四旬節メッセージで教皇は「神のいつくしみは、人間の心を変えます。神のいつくしみは、人に真の愛を体験させることによって、今度は人をあわれみ深くします。」と書いています。聖書の中の、神のいつくしみ、神の忍耐をたくさん見つけ出してください。

モーセの時代には、神を直接見ることはできず、見たら死ぬとさえいわれていました。現代のわたしたちも、神を直接見ることはできません。しかし、神が何を望み、願っているのかということを理解することはできます。それは、福音書をはじめとする御子イエスの生き方を通してです。聖書の中でイエスが、「わたしを見た者は、おん父を見たのだ」といわれた箇所がありますが、まさにその通りで、イエスの生き方を見れば、神を理解することができます。イエスは神のいつくしみの現れです。

悔い改めることですが、人間は習慣の力に流されます。習慣を打ち破るためには、意欲と熱意とエネルギーが必要になります。自分の楽しみのためには、時間を工夫したり都合をつけたりするのに、人のためや神のためには、自分はもう精一杯やっていると考えます。ほんとうは自分のことより、神のためにやっておくことのほうがずっと大切なのです。

昨日、わたしは五条教会で、教会学校を見学してきました。若い人たちは元気です。しかし、教会には高齢者が多くなりました。みなさん、自分の人生はもう余生だとか、残りの人生だなどと考えないでください。今は自分の死と永遠の命を準備する大切な時なのです。

今日を自分の最後の日と考えるなら、何を最優先にするかが決まってきます。キリストにつながってしっかり実をつける生き方を心がけてください。自分に死なない限り復活はありえません。復活のいのちを期待するのなら、今しっかり自分を殺すこと、罪に死んでイエスに生きる者にならなければなりません。悔い改めにふさわしい時であるこの四旬節を有意義に過ごしてください。