四旬節第2主日は毎年、主の変容の福音が朗読されます。主の変容のできごとは、最初の受難の予告のすぐ後で起こり、受難を通しての栄光の姿を弟子たちにかいま見せています。昔、わたしが習った神学校の教授が、主の変容のありさまを見た弟子たちは「あら変よ」と言った、とダジャレをとばしていました。この変容の場面で「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という天からの声がありました。きょうは聞くことについて考えてみます。

先週の荒野の誘惑のとき、イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ4.4)と考えました。神のことばを聞くことは、聞き流すのではなく聴き従うことです。詩編作者は「神のみ旨を行うことは私の心の喜び」とうたいました。カナの婚宴の時、聖母は給仕する人たちに「何でもイエスの言うとおりにしてください」と言いました。

神のことば、イエスのことばを聞くためには、聖書を開かなければなりません。今の時代、ほとんどの人は携帯電話やスマートフォンを持ち歩いていると思います。人と連絡をとったり、ゲームをしたり、写真を撮り、音楽を聴いたりもします。これをどこでも、乗り物の中、待合室、レストランで、信号待ちの時間にも使っている人がいます。でもこれで最新情報がわかり、便利になったとしても、神のことばはわたしたちに入ってきません。

教皇フランシスコは一昨年の四旬節第2主日に、イエスは福音書の中からわたしたちに語りかけてきます。それで、いつも福音書を持ち歩いてください。小型の福音書をポケットやカバンに入れて持ち歩き、機会あるごとにイエスの語りかけを聞いてくださいと言いました。わたしたちが出かけるとき、財布や携帯電話を持ち、家の鍵も忘れずに持って出かけます。その時に福音書も持っていきなさいと勧めているのです。教皇は一日中、事あるごとにポケットから取り出して、短い箇所を少しずつ読んでいるそうです。イエスはそこにいて、福音書の中からわたしたちに語りかけてくれます

またさらに、主の変容の出来事から二つの重要な要素が引き出されると言いました。それは「登る」と「下りる」です。わたしたちは人々から離れ、山に、すなわち沈黙の場所に登らなければなりません。そこで、自分自身を見出し、主の声をよく聞き取ります。そしてそこに留まるのではなく、「山を下り」低いところ平地に戻ってこなければなりません。この平地でわたしたちは、労苦、病気、不正、物質的・精神的な貧困にあえぐ多くの兄弟たちと出会います。わたしたちは受けためぐみを分かち合います。わたしたちがイエスのことばを聞いて心に保つと、このことばは成長します。イエスのことばはわたしたちがそれを告げ知らせ、他の人に与えるときに、わたしたちの中で成長していきます。

今年はいつくしみの特別聖年です。
わたしたちはいつくしみ深い神と出会い、神のいつくしみを伝える道具となり、キリスト者がいるところではいつも、誰もが、いつくしみのオアシスを見出すことができるようにしていきたいものです。