愛のあるところに
“Ubi caritas et amor, ubi caritas Deus ibi est.”
「慈しみと愛のあるところ 神はそこにおられる」
アビラの聖テレジアは、お祈りは<愛する>ことです、と言っていました。もっと深く愛するために祈るのです。では、だれを愛するのですか?
神さま、隣人、被造物と呼ばれる兄弟姉妹、そして自分自身です。順序もあると思いますが、人は愛するために生まれ、愛されるとき生き甲斐を覚える生き物です。人は愛によって生まれ、生かされています。それは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、……」くださった「先立つ愛」のおかげです。
また愛は意志とも関係している、と聖女は言っていました。愛はこだまします。感動が生まれるとき、意志も動かされます。理性よりも心の動きが、考えることよりも感動が、意志を駆り立て、無償の愛になるからです。神がどのような方であるか、ほんの少し分かるとすれば、それは愛を自覚することによります。
子どもの頃、そばに親がいてくれれば安心でした。何の不安もなく過ごせました。その日暮らしのような生活でも、心配しませんでした。買い物について行って、親がわずかなものしか手に入れられなくても、恥ずかしいとも思わず、平気でした。運ぶのを手伝っていました。親を恥ずかしいとは、思いませんでした。「家貧しくして、孝子あらわる」という感じでしょうか。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ18:3―4)。このような信頼を持ちましょう。
親も子どもを誇りにしています。アメリカでは ”I am proud of you” と言います。日本では「親の自慢の息子、娘」となります。「いたらぬ子どもほど、親は可愛い」という言葉もあります。親は子どもを愛するものです。神は親、父のような、母のような、神さまです。自分は、神さまの自慢の子どもであると、信じられますように、神の「親心」があふれている聖書の個所を良く読んでください。
聖書の個所: 一個所を選んで、ゆっくりと読みます。
1ヨハネ 3:1-3「御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい」
コロサイ 3:12―17「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」
1テモテ 4:14―16 「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」
1 ヨハネ 3:1-3
1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
コロサイ 3:12―17
12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
1 テモテ 4:14―16
14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。15 これらのことに努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
1テモテ 2:4-7
4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。