死について
Memento mori !
メメント・モリ!「死を覚えよ」)

ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど
きのふけふとは 思はざりしを   在原 業平
古典は「死期はついでを待たず、死は前よりしも来たらず、かねて後に迫れり、人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。」と教えています。

海辺に一人立っていると、はるかに干潟が広がっています。潮というのは遠くのほうから、ひたひたと満ちてくるものと思っていたのに、突然、自分の足下の磯から潮が湧き出てきたら、さぞびっくりすることだろう。死というのは、そのように突然訪れるものなのだ、という業平の実感です。それが自分の死と結びついて「ああ、これが死の訪れなのか」と気がつくのは大発見ではありませんか。
灰の水曜日に「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」と告げられて、灰を受けました、頭か額に。「回心して福音を信じなさい」もありました。よりよい人生を過ごすために、自分の終りについて祈りましょう。

「お地蔵さま参り」があります。道ばたや街角に、お地蔵さまが立っている風景を見たことがありませんか!赤い前掛けをつけられたりして、可愛いお地蔵さまです。「ぴんぴん ころり ぴんころり」。終活です。
「終わりよければすべてよし」と言います。どのような終活をしていますか?

イメージを使って:
◎ 自分の終りの時の様子を想像してみます。
☆ どのように此岸から彼岸へ「過越」していきたいですか。
★ 帰天記念のご絵に記してほしい「言葉」は、なんですか。

聖書の個所:
詩 編 30:1~12 「泣きながら夜を過ごす人にも」
2コリ 5:14~21 「自分自身のために生きるのではなく」
1コリ 15:35~58  死者の復活について
ヘブラ 4:14~5:10 「私たちと同様に試練に遇われたのです」
聖フランシスコの書き物:
「フランシスコと共にいた私たちは」:28~31頁 病気と死
「チェラノの第一伝記」:第8章 臨終と死  小品集:287 頁から「遺言書」

詩 編 30編1~12
1(神殿奉献の歌。ダビデの詩。)2 主よ、わたしは崇めます。あなたはわたしを救いあげ、敵がわたしのことでよろこぶのを許されませんでした。3 わたしの神、主よ、わたしが救いを求めたとき、あなたはわたしを癒してくださいました。4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。5 主の慈しみに生きる人々よ主に賛美の歌をうたい聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。6 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。7 平穏なときには、申しました「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。8 主よ、あなたが御旨によって砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されるとわたしはたちまち恐怖に陥りました。9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。10 わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげあなたのまことを告げ知らせるでしょうか。11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。

2コリ 5章14~21
14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを虜にしているからです。わたしたちはこういう考えに達しました。「一人の方がみなのために死んだ以上、みなが死んだのである」と。15 そして、その一人の方がみなのために死んだのは、生きている者たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちの故に死に、そして復活してくださった方のために生きるためなのです。16 したがって、わたしたちは、今後誰をも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストをしたことがあったとしても、今は、もうそのように知ろうとはしません。17 ですから、誰でもキリストと一致しているなら、新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、今は新しいものが到来したのです。18 これらのことはみな、神に由来しています。神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する務めをわたしたちにお与えになりました。19 つまり、神こそ、キリストにおいてこの世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解のための言葉を私達にお委ねになったのです。20 ですから神がわたしたちを通して呼びかけておられるように、わたしたちはキリストのために働く使者となっています。キリストに代わって願います。どうか、神と和解させていただきなさい。21 神は罪と何のかかわりもない方をわたしたちのために罪となさいましたが、それは、わたしたちが、その方と一致して神の儀を得るためでした。

ヘブラ 4章14~5章10
4章
14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通って行かれた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、わたしたちの宣言する信仰を堅く守ろうではありませんか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないような方ではありません。罪を犯さなかった以外は、すべてにおいて、わたしたちと同じように試みに遭われたのです。16 ですから、わたしたちは、憐れみを受け、また、時機を得た助けの恵みを頂くために、はばかるところなく、恵みの玉座に近づこうではありませんか。

5章
1 大祭司はみな、人間の中から選ばれて、人々のために神に仕える者として任命されたのです。その務めは供え物と、罪を贖う犠牲をささげることです。2 大祭司は、自分自身、弱さを身にまとっているので、無知な人や、迷っている人たちを思いやることができます。3また、その弱さの故に、彼は民のためと同じように自分自身のためにも、罪の贖う犠牲(いけにえ)をささげなければなりません。4 また、アロンがそうであったように、神に召された者でなければ、誰も自分でこの栄誉にあずかることはできません。5 同様に、キリストもまた、大祭司になる光栄を自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、わたしは、今日、あなたを生んだ」
と仰せになった方から、お受けになったのです。6 またほかの箇所でも、神は、
「あなたはメルキゼデクの系統による永遠の祭司」
と仰せになっています。
7 キリストは、この世におられたとき、自分の死から救うことのおできになる方に、大きな叫び声と涙をもって、祈りと願いをささげました。この敬虔の故に、それは聞き入れられたのです。8 彼は御子であるのに、数々の苦しみによって従順を学ばれました。9 そして、完全な者とされたので、この方に従うすべての人々の永遠の救いの源となり、10 神によって、メルキゼデクの系統による大祭司と呼ばれたのです。

※ 聖書の箇所は、
フランシスコ会聖書研究所 訳注 原文校訂による口語訳聖書を引用しています。