社会的罪と私の責任

「罪とは何か、わからない」という人がいます。また「教会で、罪人と呼ばれるのが、嫌いだ」という人もいます。罪がわからないということは、まだキリストと出会っていないこと、聖霊を知らないということです。人はキリストの人格に触れるとき、罪が何かわかりますし、今も息吹いている聖霊に助けられて、自分の罪深さを知り、人類の罪深さを自覚できるようになります。

私-個人の罪を自覚できたとしても、それだけでは足りません。罪には社会性があります。サウロは信徒を迫害していたとき、「サウロ、サウロ、なぜ、私を迫害するのか」というイエスの言葉をききました。隣人に対する迫害は、キリスト-神の民に対する罪となるのです。隣人に対して、ひそかになされる罪も、神の国に害をもたらします。人間は社会的動物ですから、罪にも社会性があります。
隣人というのは、人間の尊厳とか、自由、権利、万人の共通善などを含みます。ですから抑圧、差別、搾取、公害、環境破壊などは、罪です。たとえ直接に手を下さなくとも、一人の無関心、怠慢、非協力によっても罪は生じ、損害を与えます。行政や医療機関の「不作為の罪」が問われた事件がありました。

前教皇ヨハネ・パウロ二世は「社会的-構造的な罪」について、「真の開発とは」のなかで述べておられます。「構造的罪(社会制度、企業、国家、体制の集団的行動による罪)は、個人の罪に根ざすものあり」「多くの個人的罪が積み重なり、集中したものの結果」が、社会的罪であると述べておられます。キリスト者の責任は、どうなるのでしょうか。

内省のために:
★ 社会的な罪の被害者になったことがありますか?
★ 隣人が被害を受けているのを見たことがありましたか?
★ 自分が行動を起こしていたら、変わっていたと考えられることがありますか?
聖書の箇所:
出エジプト  6:1-13  モ-セの使命
イザヤ    58:6-12  「私の選ぶ断食とはこれではないか」
マルコ     5:1-20  ゲラサの人に対して

「必要なものはただひとつ、私達を必要としている人々である」 (クロ-デル)
「この世が悪いのは、この私のせいだ」 (ドストエフスキ-)