神の私への愛
- for the conversion -No.7

人は罪について、頭では理解できます。罪のゆるしと救いについても同様です。知識として、キリストが私の罪のために、死をもってあがなってくださったことも、知ってはいます。
問題は、自分の罪を私が自覚できるか、どうかです。同じく、救いの恵みを、私自身が自覚できるのか、ということです。「あなたの罪は、ゆるされました」と聞かされても、身に覚えのない「借金を棒引きにしてあげます」と言われたみたいな心境では、喜びも感謝の念もわいてこないのです。
信仰者のなかにも、罪の自覚のない人はいます。<罪責感>は、自己反省や分析によってえられるよりも、信仰が深まるにつれて、初めて自覚されるセンスです。
実際、信仰への開眼なしには、罪人としての自覚はありません。
罪深い者としての自分を感じることは、信仰による恵みです。キリストの愛を知れば知るほど、愛されている罪人としての自覚が生まれます。同時にキリストの救いの必要性をも、強く感じます。さらに、あがなわれた者としての喜びを味わい、感謝の心も一層大きくなるのです。
人は自分の罪を直視できません。ただ、神の愛を知ったとき、その愛に支えられて、自分の罪を認めるだけでなく、さらに深い喜びを覚えるのです。神の愛のみが、生来の罪深さに恥じと恐れを感じさせ、罪との決別、回心へとうながすのです。
別に気にしていないようでも、「魚の小骨がのどにひっかかっているような」感じがします。「ご飯粒が足の裏に」ついている感じ、「靴に小石が入った感じ」では、晴れ晴れしません。心の底から覚える喜びがあります、罪のゆるしには。

心で祈るために:
☆ 自分の罪を知る恵みを願ってみます。
★ 自分のうちに暗い心の動きがありますか。
◎ 分裂、混乱、愛着、気になるところがありますか。

聖書の個所:
マルコ   7:14~23「人の中から出てくるものが、….」
エゼキエル 16:1~63 エルサレムの荒廃は
1ヨハネ  1:8~10「罪はないというならば自分を欺いており」
黙示録   2:4~7「あなたに言うべきことがある。初めのころの愛から、