お祈りって何でしょう?

四谷にある大学の神学講座に通っていた頃の思い出です。信仰について学びに行きました。信仰「について」勉強しに行ったのですが、お祈りをしなさいと忠告されました。ペトロ神父さまが、信仰と祈りは、ひとつですと言ったのです。お祈りとは、黙想のことでした。カトリックの伝統は、メディテーションを大切にしています。教会は、お祈りを、口頭と念祷に、さらに念祷を黙想と観想とに分けて伝えてきました。

識字率が、今のようではなかった時代、暗記した言葉を唱える祈りや、読むお祈りがありました。聖フランシスコもラテン語に通じていた人ではなかったようです。詩編の言葉を暗記していました。「主の祈り」も暗記して、なんども唱えることが、お祈りでした。そういう時代があったのです。福音書が身近に無かった頃のお祈りですから。

キリシタンもオラショをしていました。「オラショ」とは祈りの意味です。暗記した言葉を唱えていました。キリシタン用語で、ラテン語祈祷文のことを指していました。

四谷で出会ったペトロ神父さんに、黙想することを薦められて参加しました。新聞に黙想会案内が出ていましたので、申し込みました。そこでペジノ神父さまに、個人指導をしてもらいました。二泊三日泊まり込んで、聖書を読んで、思いめぐらして、感想を聞いてもらうやり方でした。次に読む箇所を指定されて、心で祈るというやり方でした。マリアさまが、ガブリエルからお告げを聞く場面を、先ず与えられました。

「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19 )。

イエスの聖テレーズは「念祷とは、自分が神から愛されていることを知りつつ、、、その神と親密な友情を交換することにほかならない」と記しています(自叙伝 7:10)。

どのように生きるのか、考える、良く考える、つまり「心で祈る」ことを学びました。言葉を覚えると言うことよりも、良く考える、つまり心で祈ることを学んだように思います。それが今の私をつくったのです。後年、ラティシメント神父さんからは「心の動きに気がつけば気がつくほど、祈りがパーソナルになる」と教えられました。

「こう祈ったら どうか!」、これは私がしているメディテーションですが、講話よりも、自分で、つまり心で祈る提案なのです。よく味わう、それが知恵の始まりなのです。「知恵」をラテン語では「sapientiaサピエンチア」と言いますが、「味わう Sapio, Sapere 」から生まれたと聞きました。Sapientia これが賢明、分別になりました。

「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2:19 )。

「心の動きに気がつけば気がつくほど、祈りがパーソナルに」なります、つまり人格的な対話になります。これを願っての、「こう祈ったら どうか!」なのです。