今日はイエス・キリストが十字架にかけられる前夜、弟子たちと行なった「最後の晩餐」を記念する日です。聖体の制定、洗足式の実施、司祭職の制定を祝う、重要かつ特別な一日です。
先日、大町教会から洗足式はどうしますかと聞かれたので、今年はわたしが車椅子になってしまい、前屈みになると転倒してしまう恐れがあるため、またあくまでも任意であるため、行ないません。と返事をしました。中には司祭に足を洗ってもらうのを楽しみにしていた方もいるかもしれませんが、その方々は残念ですが、自分で何か足を洗うことを探してしてください。
洗足式は伝統的には12人の男性の足で行われてきましたが、2016年の教令により、現在は男女を問わず「神の民」の中から選ばれた人々に対して行われています。教皇フランシスコは、刑務所の受刑者や移民施設の人々の足を洗うなど、社会的に弱い立場にある人々への奉仕としての側面を強調し制定を記念していますがヨハネ福音書には最後の晩餐の時の聖体制定の記述がありません。ヨハネがご聖体の制定に触れなかったのは、わたしの記念として行われているミサにあずかり、ご聖体を受けるだけでなく、もっと大事なことは、人に仕えることなんだということをご自分の模範によって教えたかったのだと思います。世の中の権威ある人たちは時々間違えて権威を使うことがあります。つい先日、砂川のヒグマ駆除のために駆り出された猟友会会員が、猟銃の所持許可を取り消されて、最高裁まで争って無罪を勝ち取り、猟銃の所有を認められました。裁判官や検察側に非常識な威張っている人がいたので善意の人が犯罪者にされてしまった事件でした。また最近の2020年には大川原(おおかわら)化工機事件がありました。この事件は軍事転用可能な装置を無許可で輸出したとして逮捕・起訴された会社経営者らが、後に起訴を取り消された異例の冤罪(えんざい)事件でした。この事件は、捜査機関による「捏造(ねつぞう)」や、病気でも保釈を認めない深刻な問題が浮き彫りとなり、現在も裁判官の責任を問う新たな訴訟が進行してます。
いまの世の中強い者、豊かな国が威張っています。貧しい人や無力のものが遠慮して黙っています。いまのアメリカのイラン攻撃は、始まってもう一カ月経ちました。アメリカやイスラエルは、自分たちの目に丸太があるのに、他の人の目の中のおがくずをとらせてくれと言ってイランの核施設の攻撃を仕掛けました(マタイ7.35-37)。
日本の教会やローマ教皇庁は、上に立つ強い者は、下の者や弱い者に奉仕し、支えなければ、世の中は良くならないと、ハッキリ言ってほしいです。わたしたちは無力ですが、祈りができます。世界中の祈りが集まれば、いい世の中暖かい世界、住みやすい世界に変わっていけると思います。
今日の聖木曜日は聖体の制定と司祭職の制定を記念する日でもあります。今日の福音の冒頭に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。そして「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ‥‥弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた」と続きます。ご聖体の制定と弟子の洗足は、全く関係がないように思われますが、互いに支え合う存在です。共観福音書における聖体の制定は、キリストがパンとブドウ酒の中に存在し、人々のいのちの糧として自分を捧げることでした。そして聖体の祭儀を「わたしの記念として」行うように命じました。叙階の秘跡によってよい牧者であるキリストに結ばれた司祭は、「教会の中で教会のために、司祭キリストを実際に生き生きと映し「頭であり牧者であるイエス・キリストを秘跡的に示す」ことになります。
司祭はキリストの子分となりキリストを証し示します。わたしは今年叙階から50年経ちました。わたしはいままで多くの良い牧者の司祭を見てきました。わたしが少しでもそうした司祭たちに近づけるようお祈りをお願いします。*(O)
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