今日の福音は先週の箇所の続きです。イエスは安息日に会堂で教え、悪霊にとりつかれていた人を癒しました(マルコ1.21-28)。今日の箇所はその続きで、同じ一日の間の出来事です。29節「すぐに」32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追ってカファルナウムでのイエスの活動の様子が伝えられています。
まず最初にシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたと書かれています。イエスがそばに行き、手をとって起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。「もてなす」はギリシャ語で「ディアコネオーdiakoneo」です。この言葉は「仕える、奉仕する」と訳されることが多い言葉です。この言葉はマルコ福音書の中で、イエスご自身の生き方を表す言葉として重要です。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また自分のいのちをささげるために来たのである(マルコ10.43-45)。
熱がひいてさっそくもてなしたペトロのしゅうとめは、愛と奉仕に生きたイエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていったのです。聖書と典礼の解説には、もてなしたの原語は「仕える」を意味する語。救われることは仕える者となるためであることが暗示されていよう。と書かれています。みなさんイエスに倣って、仕える人になってくださいね。わたしは以前、つかえている人のことで、失敗したことがあります。コンビニのレジで後ろにたくさん並んでいるのにモタモタしている老人にしびれを切らし、「早くしろよ」と言ってしまってから、アッまずい(今日はローマンカラーを着ていたのだ)と気づいたのです。自分のことしかかんがえないで後ろの人を待たせる人、そういった人をつかえさせる人は嫌われます。
イエスはシモンのしゅうとめをいやしてからも、日が暮れるまでいろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、働かれました。そして次の日は朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れたところに出て行き、そこで祈っておられました。そして祈ってから「近くのほかの町や村へ行こう。そこでわたしは宣教する。」と言われます。祈りの後で自分のなすべきことを示しています。
わたしは若いころは修道院で共同生活でした。そのころは朝寝坊することもありましたが、教会に一人で住むようになってから、朝は早く起きられるようになりました。朝はひとりで祈る大切な時間になりました。60歳を過ぎてからは、年寄りになったので、朝は早く目が覚めるようになりました。教会の朝の祈りに、信者さんより遅く聖堂に入るのは、司祭として恥ずかしいと思うようになりました。5年前に入院するまで、旭川の修道院の玄関の鍵を朝はわたしが開けていました。毎日、朝のうちにその日のことを考え、神さまとともに過ごすことが、神様の声を聞く大切なことです。イエスが忙しい一日の中でもしっかりと祈りの時間をとっているから、その次になすべきことをしっかり選択することができていました。祈りは神さまの声を聞く大切な時間をとることです。わたしはいま老人施設に住んでいて、修道院の共同の祈りはできないけれど、毎日、修道院のミサの時間は、自分の祈りの時間に使っています。いままで、修道会の会議や黙想会の時、尊敬する神父さんたちは皆、早起きして聖堂で祈っていたことを思い出しました。*(Ka)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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