今週の福音は先週の続きの箇所です。イエスはエルサレムの神殿で、ファリサイ派の指導者から律法の掟のうちで、どの掟が一番大切かと質問され、第一はシェマ・イスラエルという、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛すること」という掟であり、そして第二の戒めは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われ、この二つは切り離すことができない大切なことである」と言われました。

今週の福音では、律法学者やファリサイ派の人々に対する厳しい批判を述べています。このような当時の権力者への批判がイエスの寿命を縮めたのは確実なことと思われます。

わたしは今から50年以上前に、司祭になりたくてフランシスコ会の小神学校(養成施設)に入学ました。その頃その小神学校にいた司祭を知っていたある司祭から、その小神学校に行って、何某神父の言うことは聞いても、決して彼を見習ってはいけないと忠告を受けました。今考えると神学校の指導者の神父たちの中にも、司祭職を辞めてしまった人たちが何人もいました。わたしたちは立場上従わなければならなくても、あんなふうになりたくないと思う司祭もたくさん見てきました。

イエスは神殿でユダヤ人の指導者たちを、彼らは言うだけで実行しない、人に重荷を負わせ、それを助けようともしない、彼らは見せかけだけであると言われました。イエスは本当の愛とは友のために自分の命を差しだす愛だと教えました。

先週から11月になり、今年もあと二ヶ月になりました。今月は死者の月です。地上の「生」を超えたいのちに、わたしたちの心を向けさせてくれるのが今月です。死者のために祈る習慣は初期キリスト教の時代からあり、4世紀には東方教会に、8世紀には西方教会において、ミサの奉献文に取り入れられるようになりました。教会は、死者のために祈ることにより、生きている人だけでなく、亡くなった人をも含む、交わりの共同体であるという考えを深めてきました。

この世を去った人々のために祈りながら、わたしたちは、死者の中から「復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰をつよめ、死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください」と祈ります。わたしたちにとって死は避けることのできないものです。避けることのできないものから逃げようとしても、無理なのです。イエスはご自分の復活によって、死を乗り越える人間のいのちを示してくださいました。そして、わたしたちを永遠のいのちへと招いておられます。この招きに応えて穏やかに死を迎えたいものです。死は「新たないのちへの門」なのです。*(5)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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