マタイ福音書の18章は教会共同体のあり方について語っています。その中で特に小さい者への配慮が強調されています。マタイの所属していた教会の中で何か問題を起こした人にどのように接したら良いかで議論されていたと思われます。どうしてもその人が教会の言うことを聞かない時は、あとは神さまにお任せしなさいと言う意味で、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」というのは、少しきつい言い方をしています。今日の福音の後半は2人、3人で祈ることが勧められています。ひとりで祈ったら心が折れてしまいそうな時、2人、3人で祈ると力強い祈りになります。先日ある方の病院の検査結果がわかる日に、わたしは「どうだった?祈っています。」とメールしました。もし真っ暗な気持ちになっていたらどうであっても力になれると思いました。
あなた方が地上でつなぐことは天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。というのは、地上の声が天上の神さまの耳に届いていて、天上と地上が祈りのパイプでしっかり繋がっていることを言っていると思います。
9月5日はコルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)の記念日でした。彼女は1979年にノーベル平和賞を受け、今から7年前の2016年に教皇フランシスコによって列聖されています。先週の日曜日、わたしがミサにいった教会で、「わたしをお使いください〜マザーテレサの祈り〜」が歌われていました。それでわたしは、今度の日曜日はマザー・テレサの話をしようと思いました。わたしは昨年、修道院にあった持ち物を処分して身軽になり、たくさんもっていた本も処分しました。持ち物を捨てることは寂しいことでした。手元に本がなくなったので、パソコンでマザーテレサの言葉を検索しました。するとマザーテレサの言葉がたくさん出てきました。その中に説教に関する言葉がありました。「説教して聞かせても、それは人とふれあう場にはなりません。ほうきをもって誰かの家をきれいにしてあげてごらん。その方がもっと雄弁なのですから。」わたしが今まで出会った素敵な司祭たちは説教よりも、その生き方が人を惹きつける司祭でした。わたしも口先だけでなく日々の生き方の方が大切だということをいつも考えていなければと思いました。「大切なのは、どれだけ多くを与えたかではなく、それを与えることに、どれだけ愛をこめたかです」こんな言葉もありました。「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから」。「神さまは私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」わたしたちは、いつでも、もう少し前に進もうとする意欲を持つことがすごく大事だと思います。マザーテレサはよく祈り、そして大きな愛をもって行動する人でした。
先日8月31日から9月4日まで、教皇様はカトリック教徒が1500人しかいないモンゴルを訪問されました。そこで諸宗教の人たちとの交流の場で、地上の関心事だけに目を向けがちな人類は、多くの不正義や、紛争、環境破壊、迫害、いのちの軽視にみられるように、地球そのものを破壊し、後退と発展を取り違える危険に見舞われていると語られ、そして歴史上の今この時、わたしたちの責任は大きい、教えと行いの不一致や、信仰と暴力、神聖さと押しつけの混同などがないようにと話されました。また、「宗教は、技術の発展だけでは与えることのできないこの調和を世にもたらすように招かれている」と話されました。マザーテレサの真似はできなくても、愛の心と熱意のある人が増えてほしいと思います。*(5)
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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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