今日の福音はゆるすことがテーマです。日本語でゆるすは二つの漢字が使われます。何か許可するときの許すと人の過ちを赦す時の赦すという漢字がありますが、今日のテーマのゆるすは、過ちを赦す方の赦す漢字が使われています。今日の福音は先週の続きの箇所で、教会共同体の中で何度も赦しの気持ちを持つことが説かれています。根本にはイエスの教えてくれた主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」につながっています。

わたしはゆるすことについて考えた時、すぐ自分の机の上に置いている日めくりカレンダー「渡辺和子、ほんとうに大切なこと」を思い出しました。その毎月の29日に「ゆるすことは難しいが、ゆるすことによって自由が得られる」というシスターのことばとそこに小さく解説がついています。(不愉快なことをされれば、腹立たしさで「折あらば仕返しを」と考える自分がいます。でもそれでは惨めな気持ちが残るだけ。相手を許すと、ほめてやりたい自分が残り、プライドも残るのです。)ということばです。彼女は「許すことによって、私たちは相手の支配から自由になり、自立をかち得るのだ。かけがえのない自分の時間を、他人の支配に任せていては、もったいない。時間の使い方は生命の使い方なのだから。とある本の中で書いています。聖ヨハネ・パウロ2世が「人をゆるすとき、ゆるした人は自由になり、解放されます。人をゆるす時、その人は未来を創造的に切りひらいてゆくことができます」と言っています。他人を許さない人は、また、他人の支配下にある人なのです。「許さない」という人が上位に立っているかと思うと、実はそうではなく、その「こだわり」に縛られ、ゆるしていない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。

わたしたちは自分が神様から限りなく許され、我慢してもらっているのに、すぐ他人に対してキレて憤慨します。いつも唱えている主の祈りを噛みしめて考えるべきです。

ことわざに「ほとけの顔も三度まで」ってことばがあります。これはどんなに温和な人であっても、無法なことをたびたびされるとしまいには怒ってしまう。という意味です。

昔、神学生時代にみんなが腹を立てていたことに、わたしがなんとも感じていなかったので「お前は鈍いから腹が立たないんだな」と言われた事があります。わたしの場合は「ほとけの顔でいられるのも鈍いから」でした。感性が鈍くていつも腹が立たないのは少し困りますが、世の中のおかしなことに気づいて腹を立て、声を上げることも大切です。キリスト信者がいつもニコニコしていて、腹を立てない立派な人でいることは大切です。人をゆるすことは難しいですが、自分が人からも神様からもたくさんゆるしてもらっていることを考えましょう。*(Ka)

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〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
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