今日の福音では、イエスが苦しんでいる人に対して冷たい態度をとっている感じがします。マルコ福音書ではイエスは疲れていて、その時は人に知られたくないと思っていた(マルコ7.24)ようです。それでツロとシドンの地方に退かれていました。そこへ病気の子どもをもったカナンの婦人が「主よ、ダビデの子よ。わたしを憐れんでください」と頼みにきます。弟子たちが「この女を追い払ってください」と言ったほどしつこく願いました。この婦人に対してイエスは「わたしはイスラエルの人のために来たのだから今は何もしたくない」と願いを拒絶しています。マタイ福音書ではイスラエル民族を優先することばが何度か見られます。これはマタイ福音書がユダヤ人キリスト信者を対象として書かれていたからかもしれません。これに対してこのカナンの婦人はユダヤの指導者たちとは反対の態度で、イエスに信頼して頼んでいます。わたしはイエスの考え方も教会の態度も、人や出来事を通して変化していくと思っています。福音は最初はユダヤ人に向けられていても後で全ての人やすべての民に向けて伝えられるように変化しています。

イエズス会の英隆一朗神父さんは、「イエスに出会った女性たち」という著書の中で、「異邦人であるカナンの女性との出会いによって、イエスのメシアの意味と意識が広がったと考えられる。イエスは異邦人の信仰者との真摯な対話によって真のメシアへと変貌していった」と書いています。マタイが属していた教会では、だんだん異邦人の信者が増えていってキリスト教が普遍宗教へと変貌していったようです。

3年前の年間第20主日のバチカンのお昼のお告げの祈りの時、教皇さまはカナンの婦人について話し、この婦人の真剣な願いはイエスの心を打ち感嘆のことばを引き出しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」立派な信仰とはなんでしょうか?それは、自分の人生、傷をも負ったその人生のストーリーを、主の足元に差し出し、いやして欲しい、それに意味を与えて欲しい、と願う信仰です。わたしたちは、たくさんの苦しみや、災難や、罪を伴う困難な傷を持っています。それを隠さないで、主のみ前に差し出さなければなりません。神の優しさに触れるために、人生の苦しみを神のみ前に差し出す態度が必要です。と話されました。

神のいつくしみを引き出すために、自分の傷や弱さなども、遠慮せずにお願いしましょう。教会も社会も人の弱さ、傷や痛みに向き合うことによって進歩していくことができます。*(ka)

イエスに出会った女性たち  英 隆一朗 著

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
Facebook&Instagramからもご覧になれます。

カトリック神居教会Facebook
https://www.facebook.com/kamui.Catholic/

カトリック神居教会Instagram
https://www.instagram.com/kamui_catholic/