先週の日曜日に聖霊降臨の祝日を祝い、聖母月の五月も終わり、教会の典礼暦は復活節が終わりまた年間に入りました。復活節中に唱えていたアレルヤの祈りが、元のお告げの祈りに変わりました。
今日は聖霊降臨の後の最初の主日で三位一体の神さまのことを考える日です。
4世紀から5世紀にかけて、教会内には、御子は御父によって造られた存在であり、御父と同一本質ではないということを主張したアレイオスの異端に代表される、キリスト論や三位一体論に関する論争が起こりました。このような論争の影響を受けて、スペインやガリアの教会では三位一体への信仰を表明する信心や説教が盛んになり、7〜8世紀には三位一体のためのミサの祈願も作られました。三位一体はごく簡単に言えば、父と子と聖霊はそれぞれ別の方でありながら唯一の神であるということです。聖書の中には三位一体ということばはありません。イエスが亡くなってから400年くらい経ちカルケドン公会議の頃になって三位一体という教義が成立しています。その内容は信仰の神秘です。ですから誰もが完全に理解できることはできません。今日は、父と子と聖霊の神のいのちについて考え、賛美する日です。神のいのちは、交わりと完全な愛のいのちで、全宇宙とあらゆる被造物の源です。
今日の福音はヨハネ3.16-18のことばが選ばれていますヨハネ3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という箇所は聖書の中でも特に有名な箇所です。わたしでさえヨハネ3.16でこの箇所を言うことができます。このことばの中には、聖書のエッセンスがすべて含まれています。それでこの箇所は「聖書の中の聖書」と言われています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」このことばでわたしは昔読んだある牧師さんの文章を思い出しました。この牧師さんは、我が子が生まれてまだことばも話せないうちにその子が天に召されてしまった。深い悲しみのうちにあって、その日からヨハネ福音書を読み始めた、そして3章16節のこの箇所に辿り着いたとき、神様がおん独り子をわたしたちに下さったことが、どんなに辛いことだったかを感じることができた。と書いていました。我が子を失って初めて神の愛に気がついたそうです。愛は相手の幸せを喜ぶことです。相手を生かすために、自分を殺し抑えることもします。愛には自己犠牲が伴います。世の中で愛が言われる時には自分が中心になっていることが多いです。世の中のみんなが自分中心に愛を考えています。愛の反対は無関心です。世の中の指導者や政治家は困っている人弱い人のことを話していても本当に困っている弱い人のことまで考えないみたいです。
自分の周りの人みんなが幸せになれるように私たちも考えましょう、愛について考えることは、三位一体の神さまを考える日にふさわしいことだと思います。*(5)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇 山本 孝神父ミサ説教 〇
Facebook&Instagramからもご覧になれます。
カトリック神居教会Facebook
https://www.facebook.com/kamui.Catholic/
カトリック神居教会Instagram
https://www.instagram.com/kamui_catholic/