今日の福音には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉があります。このヨハネ15章の言葉は、最後の晩さんの席でイエスが弟子たちに語った別れの説教と言われています。
わたしはこの言葉で、聖コルベ神父様のことを思い出しました。コルベ神父は1941年ポーランドのアウシュッビッツ収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりになったことで知られている神父様です。
昨年の3月にイタリアでは新型コロナウィルスによって、約50人の司祭が亡くなったそうです。司祭は病人がいれば病者の秘跡のため、病人に近づきます。50人という数は、その頃、新型コロナウィルスで亡くなったイタリアの医師の数より多かったそうです。その亡くなった一人のジョゼッペ・ベラルデッリという72歳の司祭は、以前から呼吸器系の病気を患っていたため、信者たちが購入してくれた人工呼吸器を、自分よりも若い人に使って欲しいと譲った後、病院で亡くなりました。葬儀の日には感染拡大を防ぐために集会や外出が厳しく制限されていて人々は、神父の柩が埋葬に運ばれる際、窓から拍手したそうです。このニュースはイエズス会のアメリカ人神父がツイッターで、「友のために命を投げ出すほど大きい愛はない」というヨハネ福音書の言葉を引用して紹介したため世界中に知れ渡りました。
いまの日本では新型コロナの影響で、入院してしまうと、もう病者の秘跡を受けることは困難になっています。先日、知り合いの娘さんが、お母さんが朝、倒れていて、救急車を呼んで入院できたけれど、面会が制限されていて、実の娘でも側に行くことができないと嘆いていました。まして、司祭が行ってお祈りすることなどは難しくなっています。
わたしたちは人のために、自分の命を差し出す、そんな大きなことはあまり出来ないと考えています。わたしたちは、なにか大きな素晴らしいことをすることが人の役に立つことだと考えていますが、それは思いちがいです。わたしたちは大きなことによってではなく、小さなことによって人の役に立つことができます。自分が誰かの役に立っていると考えることはうれしいことです。わたしたちが幸せでいつも幸福ならば、人に幸せを伝えていきます。誰かの役に立つことは、その人を幸せにしていきます。イエスが、「あなたがたが出かけて行って実をむすび、その実が残るように」と弟子たちに語ったのは、殉教するような大きなことではなく、幸せや喜びをあちこちに届けなさい。ということだと思います。人が喜んでくれることをいつも考えてください。人が欲しいものをあげるとき、わたしたちは自分の中の喜びも大きくなることを知っています。愛は人を喜ばすことです。教会には、近くの人に喜びや笑い、安心や安らぎを運んでくれる人がたくさんいて欲しいと思います。愛というのは、すぐ目の前にいる人が、人間としてよいものを発揮できるように刺激を与え続けること、その人がより良くなるために貢献することです。
昔、わたしに洗礼を授けてくれた神父さんは、「愛とは、相手の本当の幸せのために尽くすことです。」と教えてくれました。