今日は世間ではバレンタインデーです。元々はカトリック教会の聖バレンチノという殉教者の記念日でした。わたしは今から56年前の1965年のこの日に「洗礼を受けよう」と決心したので、自分の洗礼名をバレンチノにしました。その何年か後に第二バチカン公会議が終わり、典礼の改革があり、2月14日は、ローマ時代の殉教者ではなく、スラブ人にキリスト教を伝えた聖チリロと聖メトジオという兄弟の聖人の記念日になってしまいました。

今日の福音はイエスが重い皮膚病の人を癒した話です。イエスのころの「重い皮膚病」の人は.治る見込みがなく、社会から追い出され、心と体に重い十字架を負わされていました。イエスは律法に縛られることなく、その人に触れて彼をいやします。いまならソーシャルディスタンスとか、また手洗い、うがいなどいろいろ気を使うことが多いのですが、イエスはなんのためらいもなくその人に触れます。わたしたちはどうでしょうか。誰かを助けるために手を差し出す時、イエスのように、深く憐れんで手を差し出すことができるでしょうか。

わたしは今日、病人や老人など、自分の周りにいる弱い立場の人たちに対して自分はどのような関わり方をしているかを考えて欲しいと思います。

わたしは平成から令和に変わる時の4月29日に救急車で運ばれて入院し、その後入退院を繰り返し、たくさんの医療関係者のお世話になりました。その中には嫌な人もいました。毎朝病室に入ってきて、挨拶もしないでカルテを見てわたしをじろっと眺めていくだけのドクターがいました。患者がいるから病院は成り立っているのだからもっと大事に扱ってほしい「医者よ、改心(回診)して悔い改めよ」と思いました。近頃、旭川医大の学長さんが病院長をやめさせたり、教授たちから学長の辞職を求める署名活動をされているニュースがあります。こんなことで有名になり、この吉田学長という方は長い間、医者と学長の地位にいて、思いっきり上から目線で物事を見る習慣のついた人だと思いました。

イエスは上からではなく、弱く小さな人を大切にしてくれた人でした。そして世の終わりに「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とわたしたちに言ってくれる方です。この最も小さい者の中に、キリストを見出した聖人はたくさんいました。マザー・テレサは毎朝のミサでご聖体拝領をし、街の中の最も貧しい人を通してもう一度キリストと出会っていました。聖ジェラルト・マイエラという聖人は、「ご聖体は見えないキリストであるように、貧しい人と病人は見えるキリストです」と言っています。わたし達の周りには病気の人が多いはずです。その人たちを通してキリストに出会いましょう。わたしは自分のスマホのメモ帳にお祈りを頼まれた人の名前を書き込んでいます。先日数えたら45人の名前がありました。この中には何回かに分けて放射線治療を受けている人も数人入っています。わたしは、自分が何も考えないで、のほほんと過ごす1日が、彼らにとっては、とても大切な1日なんだろうと考えた事があります。自分が長いこと入院していて感じたことは、病人には、お見舞いはこんな時期なので無理かもしれませんが、メールや手紙はとても嬉しいということです。また祈りの花束をもらうことも力になりました。

病人のために祈ることは大切なことです。心も体も弱っている人たちのために祈ることは大切なことです。ポルトマウリチオの聖レオナルドという聖人は、死の前の一回のミサは死後の多くのミサよりも有益であるといいました。聖アンセルモは、ある人自身のために、存命中捧げられた唯一のミサは同じ意図で死後に捧げられる1000回のミサよりも価値があると言っています。もちろん死者のために祈ることは善いことですが、今生きている人を大切にすることを考えるべきです。わたしたちの近くにいる病人が、人生の目的と本当に大切なものに気づくことができるようわたしたちは手助けしましょう。また、今日は自分の人生についても考えてみましょう。人生の最後の弱った時に祈ってもらいたいのなら、いまできる時に病人のために祈っておきましょう。