今日の福音は、マルタとマリアの姉妹の話です。エルサレムに近いベタニアにあったこの姉妹の家イエスが生き返らせたラザロという兄弟もおりました。また、イエスの受難の前に、マリアイエスの頭に非常に高価なナルドの香油を振り掛けたところでした。ベタニアのこの姉妹たちの家はイエスがくつろげるお気に入りの場所だったようです。マルタは活発によく動く性格で、マリアはどちらかというとおっとりしている性格だったようです。イエスはマルタの奉仕を頭から否定しているのではなく、まず話を聞いて欲しかったので、「必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ」とマリアの肩を持ったような発言をしておられます。昨日、わたしは夕の祈りの時間に、この福音箇所を考えていて、さらにイエスはマルタに「まず、自分の目から丸太を取り除け」と言われたかもしれないと気づいたら、吹き出してしまいました。

 数年前に、教皇フランシスコは、マルタのように忙しく暮らす、今日のキリスト者たち、日曜日のミサには行くが、それ以外は、子どもたちと遊ぶ時間もないほど忙しくいつも時間に追われているので、立ち止まり、主を見つめ、聖書を手に取って御言葉に耳を傾け、心を開くように」と呼びかけました。これに対して、もう片方のマリアの方主の話しに聞き入り、主を見つめ、主の言葉に触れ、そこから、後にすべき仕事のための霊的な力を汲み取っていました。それぞれが考えてください。夫である皆さんは妻の、妻である皆さんは夫の話を聞くために時間をさいていますか。親である皆さんは自分の子どもの話を聞くために時間を「すり減らして」いますか。高齢の祖父母に対してはどうですか。「でも、おじいさんもおばあさんも同じことばかり言って、退屈なのです」。それでも、彼らの話を聞く必要があります。聞き入ってください平和の源は傾聴する力にあるのですいつも忙しく動き回り、良いことをしていても、それは人間的な善であって、キリスト教的善ではありません。観想と心の平和が欠けていると、本当に無駄なことをしていることになります。毎日の生活の中で、イエスの神秘を観想しているか、そして信仰と福音にふさわしい形で仕事をしているかを、それぞれが考えてみましょう。

 教会でも、職場でも、人が集まれば、生まれも育ちも、考え方も違うので、すれ違いが多くなります。先日、こんな話を読みました。落ち葉の季節のことです。ある禅僧が、弟子を連れて庭を歩いていたところ、パラリ、パラリと落ち葉が舞い落ち禅僧はそれを一枚一枚拾っては、袂に入れていました。それを見た弟子が「和尚、やめてください。後ほど、わたしがきますから」これを聞いた禅僧は弟子を一喝しました。『馬鹿者!後ほどで庭が美しくなるか。一枚拾えば一枚だけ美しくなるのだ』。わたしはいま出来ることをその場でやっていくことに大賛成です。でも、「後でまとめてやった方がいい」と考える人もいます。自分の考えが正しいと思う人がいれば、ほかの人との間にひずみが生まれてきます。正しく判断することと 人間関係は難しいです。でも。誰もが、神さまがいまわたしに何を望んでられるのか、祈りとみ言葉を聞くことによってしっかり押さえておくことは、とても大切だと思います。わたしたちはもっとイエスのもとに留まりましょう。           *(Ka