今日の福音は「善いサマリア人」のたとえばなしです。ルカ福音書だけに書かれているわかりやすい話です。イエスは分け隔てなく、助けを必要としている人にすぐ手を差し伸べました。困っている人苦しんでいる人がいたら黙って見ていられなかった人です。イエスの周りには評判の悪い人、罪人と呼ばれる人もたくさん集まってきました。そのことを批判された時に、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」といっています。律法学者たちは罪びとや異邦人は遠ざけるべきものと考えていました。わたしたちがイエスについて行こうとしたら、何よりもイエスの行いを真似るべきです。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言っています。これは今日わたしに向かって言われた言葉として受け止めましょう。

わたしたちは何かの親切をする場合、その人はどんな人か。見返りがあるのか、他人はどう思うのかとかなどと考えます。相手の立場、相手の気持ちではなく、自分の都合、自分の条件に会った人だけを隣人とみなすなら、良いサマリア人にはなれません。イエスは律法や理屈ではなく、いま困っている人、苦しんでいる人、寂しい思い、辛い思いをしている人そういった人がみんな隣人なのだから愛を実行するように教えています。

ネットで「善いサマリア人」について検索していたら、「善きサマリア人の法」とはどんな法律なのか?という記事を見つけました。これは善意の医療行為などを行って失敗した時に、責任を問われない法律で、アメリカやカナダなどの国では、無償の善意の行為には責任を問われないとする「善きサマリア人の法」という法律が導入されているそうです。日本ではこの法律が導入されていないので、「お客さんの中にお医者さんはいらっしゃいませんか?」とドクターコールがあっても約6割の医師が無視するそうです。善意で治療を行っても失敗した場合訴訟を起こされる可能性があるので、しり込みするそうです。さびしい時代ですね。

マザーテレサは、路上で死にそうな人を見つけたなら、どんな素性とか相手の宗教とかに関係なく死を待つ人の家に連れて行って介抱しました。わたしたちはどんな人も神さまの前では兄弟である、じぶんにとってかけがえのない大切な人なのだと考えるべきです。

以前、教皇フランシスコは「善いサマリア人のたとえ話」で、祭司やレビ人は、教会の司祭と教会に通っている信徒で、教会で典礼をはじめ、奉仕活動に携わっている信者であるかもしれません。聖書全体を頭で理解し、典礼規則、評議会の規約や教区の決まりなどをすべて理解したとしても知識から愛(いつくしみ)が自動的に生じるわけではありません。と述べました。サマリア人は、「この人を」助けたら自分がどうなるか。ではなく、「この人」を助けなかったら「この人は」どうなるのかしか考えませんでした。

来週の日曜日は参議院選挙の投票日です。わたしたちは、少しでも社会が良くなってほしいと思い、一票を投じますが、世の中が良くなるためには、政治だけではなく、人間の心が変わらなければどうにもなりません。わたしたちが愛を実行し、わたしたちの周りを変えて、少しずつでも世の中をかえていくことは大切なことです。もっと愛を実行できる優しい心、イエスのような心をわたしたちが持てますように、神さまに力を願いましよう。